目黒のラーメン屋でコート(miu miu)を掛けようとして、隣のコートがYves Saint Laurentであることに過剰に反応した私に相応しい本を思い出し、ボードリヤール の『消費社会の神話と構造』を再読。

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あらゆる物質的(および文化的)欲求が容易に満たされる社会において、私たちは消費にモノの機能的な価値としてではなく、社会的な意味付けを持つ記号として価値を見出している。
もはや欲求を満たすために消費するのではなく、他人との差別化をはかるために消費するのである。

消費の選択は偶然になされるのではなくて社会的にコントロールされており、その内部で選択が行われる文化モデルを反映している。
ヒエラルキーにおける自分の位置に応じて財を選好することが結局唯一の選択である。

48年前に出版された本だが、ボードリヤール の消費社会論は色あせないどころか、現代消費社会のパラドックスについて予言しているかのような思いを抱かせる。

「都心のホテルでランチ」した写真をInstagramに載せることは、「経済的な余裕」「都会的なセンス」「素敵な人たちとの交流」といった記号を他者に与えてくれる。
「無造作でシンプル」な画像さえ「自然体」や「洗練」を示す記号としての意味を持つ。
一見して非消費的に見える消費活動もまた、記号消費の一部としてしか存在しえない。

世捨て人にならないかぎり抜け出すことはできないこの構造が、ボードリヤールが鮮鋭に描きだした「消費社会を生きる」ということの意味である。