こんにちは、片桐セリカです。


今回は「他人に対する信頼」という、私が「最も苦手としてきた観念」について考えていきたいもので、実際にこのところ「他人と関わること」が増えてきて、それで次第に「理解し出した」ものでもあります。


この記事にて私は先ずは「他人との対等性」「一つの結論とした」訳なのですが、実際に「自惚れない」「過度に劣等感を抱かない」「他人の経験を尊敬出来る」からこそ、「年齢が上の方を敬える」「他人の仕事/専門的分野等を(年齢の上下関係なしに)敬える」「『人として』対等になれる」と言えるもので、この辺のことでこれまで私は、結局「自身の経験的知識が『他人より『人間や自己(セルフ)』を知ったもの」であったが故に、それを知らない他人を相当「見下していた」のだと思いますし、最近までも私は(※間違いなく『自信過剰』が引き起こした現実として)「ハッキリとした社会的地位がなかったこと」に対して「過剰に他人に対し『負い目を感じていた』」のだとすら思います。







それはしばしば、「欲求面での制止」
「もたらされるもの・機会等」に対する「他人への信頼」にもつながるものだと思います


例えば私が昨日(2021.11.7)感じたことは、とあること・関係から「絵を描く機会」を頂いて、それで非常に楽しませて&実力を十分に発揮した上で「いい絵が描けた」ということ、そしてその場でちょっと飲んだのですが、上手い具合に「場がお開き」になり「適量(あまり酔ってもない)で終わることとなったこと」に関して、そういう「上手く機能している現実」についてでした。


もちろんその中で、こちらも「『提供すべきもの』を提供する」訳で、そうして「持ちつ持たれつすること」は大事だと言えるし、つまりは「役割分担出来ること」が「大事だ」と言えるのです。





私はこれまで、結局「他人からの過小『過ぎる』評価」から散々バカにされ、「自信が持てなかった」し、或いは「欲求面それ自体」「単に途中で止められる(取り上げられる)こと」ばかりで、先日感じた様な「適切に『止めてもらえる』こと」みたいな経験もほとんどと言っていい程持てなかったもので、その分「他人への信頼」「ほとんどと言っていい程して来なかった」ものだと言えます。


それが例えば(この記事でもチラリと書いた様な)「酔っ払ってるときの行動→『皆に嫌われる/追い出される』のではないか?」という恐怖自体「直結していた」のだと考えられる訳で、もちろん「周囲の調和を乱す(=空気を読まない)、『嫌われる』行動をしているのでは?」という思い込みもあるものですが、それについてはどうも昔公然と批判・否定されたこと」に由来する「私一人が悪者(悪の代表)」的な扱われ方に起因するとも思われますが、もう一つは今から後述します様に、「『過度な制限や取り上げ』を恐れる心」も相当影響している様に思われます。




(※「皆に嫌われる」…これが再々考えてきた様に、「行動」でなく飽くまで「パーソナリティによる」筈で、例えばローラとかの様に「『善行』はしてても人格が…」な人「SNS上とても多いもの」でしかない。)


(※結局「過小評価」に対する「『悪的方向』への過大評価」「追い詰められていた」のだと思います。よくよく考えてみたら、「酔っ払ったときの行動」は、別に「大したことはしていない」と思ったのだ。)




私が思うに「他人を『過小評価』する/自分を『過大評価』する人」から「過度に『制限を』相手に課す/自分は『無制限に』生きる人」から、どちらも同様に不当なまでに「自分の『役割以上のこと』をしたがる」し、同時に「自分の『果たすべき役割』を果たそうともしない」ものです。


この例を挙げるとしたらば、①私が昔就職していた学習塾でのことなのですが、⑴そもそも私を「早大卒の落ちこぼれ」みたいに見下していたし、⑵同時に「新入社員」且つ「女性」でもある私に、「それなりの経験を持つ社員」ないし「男性」に対し求める様な「仕事は見て、目で盗んで覚えるもの/探すもの」と押し付けてきた訳で(※そもそも彼らが(一見「出来ている」様で)「仕事出来てない」のは言うまでもないが。)、それに対して私は当時から「おかしいだろ」と思っていたし、結局として今は、「新人/キャリアが浅い人」で、特には「周囲からもたらされるもの」を信頼している「女性」に対しては、十分に「先輩」として、「相手の気持ち等や状況を汲み、教えるべきところは教える」のが「当たり前だ」としか益々思えないものです。




(※私も「こんな会社」を選んだ分「大バカだった」が、この会社は今考えても「ブラックだ」としか思えん。他にも酒の場である職員に(しかも半勃ちの)ち●こ触らされていたのに(→普通にセクハラだけど!)、私の上司(♂)は「社会教育だ」とあたかも「私のせい」かの様にその場で助けなかったし、「仕事を盗んで覚えろ」「獲りに行け」は本当典型的に自分でどうにか進もうとする」男のやり方でしかなく、こうした経験があったからこそ私はお陰様で「『男なやり方』のが得意」になってしまったが、こうして女性の生き方」としては「不具合が多大にある」し、且つ「『若い女性』に押し付けるやり方」では基本的にはない気がする。(女性には「女性向きのやり方」が基本的にはあると。))




ウチの親父「こうした側面」が判明したのが共時的に①の「学習塾に勤め出した頃以降」なのですが、「料理」という元々「私が出来る領域」で手を出して、あからさまに(私のが「出来ない」ものだと)「見下された」し、相応して本当に(機会・料理の腕共々)「作ることが出来なくなった」のは覚えているし(※実は大学の頃にいた「レイプ魔の男」が「オレ料理上手い/お前下手」と「決め付けてかかってきた」(→「何事もサボる人間」がよく言うよな!)のも原因なのですがね。)、或いは「お金を稼ぐ」という領域に関して、本来は自分(親父自身)の領域に属するもの」私に押し付けられた」分、それが心理的要因となって「働けなくなった」もあります。


「制限的なこと」…まあこれも、私を「悪しき者」として扱い、「お酒を取り上げた人たち」は何人もいましたし(※「タチ悪い酔っ払い」って。アンタたちといたら「悪酔いもするよな」が今の本音だし、アンタらは酔ってなくてもいつも「タチが悪い」けどな。)、或いは「精神病棟内での制限」は、本当に典型的に「患者の欲求=全て悪」「節制不能」として「『出来ないでしょ?』と決めてかかってたこと」「心底腹が立った」ものです。
(※如何なる理由であれ、彼らが私に対してやったことは「行き過ぎた制限」にしかならない。)


こうしたバカな奴の「出過ぎた役割や制限」を多大に被ったお陰で私は、相当長年に渡って「もたらされる(べき)もの」という点で「しっちゃかめっちゃかになっていた」し、その分いつも「制限」「取り上げ」の様な「『私が不幸になるもの』しか『もたらされない』」と考えて、それを「恐れていた」訳です。


その分私は自分を「過小評価」し過ぎて、特には「仕事的な面」「何の役にも立たない」とずっと思い込んでいたし、同時に「過度の制限」を受け続けてきたことから、「他人に制限される」「取り上げられる」みたいにいつも身構えて、本当「他人を信じることが出来なかった」のです。


しかし先日は、私は「その場での手伝い」から「現場に行くこと」から、ほとんどと言っていい程(「子供か、お前は?!」レベルで)何もしなかった」し、一応絵は持って行ったから、「それで『持ちつ持たれつ』なのか」と思った訳です。
(※会費も(私の持った費用分を相殺してもらったではあるが)1/4しか払わなかったし、また別の方へのお礼のお金も「こんなの払わないよ!(払ったら付き合わないよ!)と逆に「言い諭された」くらいで…。ありがとう😊)


(今の括弧内の話からも分かる様に、)この人たちはある面では「『対等に』扱ってくれる」し、またある面では「『先輩として』与えてくれる」というのもようやく理解出来たもので、私はそうきて時としては「『先輩に』甘えてもいい」と、ようやくにして理解したものだし、或いは知らないうちに私も「他人の役に立っていた」のかもしれない。そう思えてきたのです。





この芸人さんの生き方からやはり改めて思ったことは、「他人を『対等に』扱うこと」は大事だということでした。



彼は「芸人」としては「売れてない」のらしいが、コロナ禍で収入がなくなったときに、全国のライブを楽しみに待つファンの方々から、お米やらマスクやら、果てや「現金」といった「様々な支援があった」とのことで、この話を見て私は「凄いな」「他人を『見下してない』からこそだな」と感じた訳です。



つまり、「ファン」的な立場の方々と、ある意味では「『対等に』横のつながりが形成されている」ということで、それで自然と「『助けられる人』が助ける」という姿勢が形成されているという訳で、この場合はこの芸人さんがファンに「助けられる立場」になっていた。



正直よくSNS(ツイッター)にて、何かを呼びかけたら「すぐ助けの手が集まった」的な話を見かけていて、それについていつも「無節操だ」「物乞いか?」と思っていたのですが、(昨今の「クラウドファウンディング」「生活保護受給的風潮」も含めて)ある程度はそれは「間違いではない」とは言えるものの、ある程度からはこうした「『ちゃんと』つながることを知る人が、『得るべきもの』を得ていたのでは?」という解釈が今は出来るものです。



当然誰彼構わず「頂戴」と言う部分に、その「無節操さ」「物乞い的側面」が見られるもので、つまりは「『相手とのつながり』が『見られない』」という点については私は(この手のやり方について)「批判する」ものの、例えばこの芸人さんの様に、地道に「相手とつながってきた」と言えるのならば、そこでもし「助けてもらえた」のならば、そこは「広範なつながりの中」でのこと故、何も「問題がない」筈です。






私は結局、「『ファン』を得たい商売」の中で、そうした「『ファン(市井の人々)』こそを見下していた」筈で、そうした中で「ファンとの間の線引きを試みようとしていた」分、かえって「『アンチ/脅かす者』が脅威になっていた」のだとすら思います。



要するに「アンチ」は、「イヤなもの」を私に与え、「イヤなきっかけ等」をもたらすものでしかない訳で、だからこそ相応して「必要な助けが得られなかった」ということも言えるのでしょう。



元々忌み嫌っていたし、或いは前アカウントでのトラウマも相当にあったのですが、「SNS上の緩いつながり」というものは、こうして考えると「存外いいものだ」と思えるもので、実際今アカウントを運営していて、例えばインスタグラムの写真用アカウントなどは特に、「相互フォローの人も多い」し、或いは相手の方の意見から考えを修正出来たりと、意外な程に「対等に相手の方と関わっていること」が多いし、「私の立場』として実は「これでいいのか?」とずっと悩んでいたりもしたのですが、先の東洋経済オンラインの記事から納得した様に、今は「それでいいんだよ」と思っている。



私もこちらのがよく知っている概念・感覚なのですが、「男性性」「勇気」「適切な努力」でもって「己を『高める』もの」で、そこに対してもちろん「自負してもいい面」はある訳で、その中で「『強者』や『達人/プロ』と対等に渡り合える面」が初めて出て来るものではあります。

(※もちろん例えばハラミみたいな「才能なし」が、メディア露出」「大物との共演をする」とか「論外」です。釣り合わない。)



それに対して今問題にしている「女性性」は、(この記事で話題にしている)「当事者感」にしろ、今考えている様な「助け合い/もたらされ」にしろ、いずれにせよ「他者との対等性」が重要だと言える筈で、その相手に何かを与えたり「当事者的に」介入するにしても、(ローラとかみたいに)そこで「他人を見下している」のならダメと言えますし、そしてもちろん「対等になりたい」「相手を知りたい」が故に、その相手と関わりを持って、それを深めていく等、「努力を重ねる部分」も当然ながら出て来ると言えます。






こうした考え方の中で言えることは、「男性性」に於いては「教師と児童・生徒」「上司と部下」「アーティストとファン」の様に、必ずしも「上下関係が出て来る」訳で、そこでその「上の/権力的地位」を使って、例えばこの頃嘆かわしいことに多い、「下賤な教師による、児童・生徒への猥褻行為」の様なことをすれば、それは必ずしも「職権濫用」「相手を踏みにじる様な行為」にしかならないと言えます。


片や「女性性」は、どんな関係だろうが「個人的関係」「横の関係」で、先の東洋経済オンラインの記事の例の様に、或いは例えば「先生が、ある児童・生徒の家族と懇意になる」みたいな話の様に、上述の様な本来「上下的関係」「メディアのある関係」を飛び越えて、「対等な、個人的関係となること」が往々にしてある訳です。
(※その中で「先生と生徒の恋愛」があってもおかしくはない、むしろ「素敵だな」とすら感じるものだ。お互いに愛し合えるのなら。)


私もSNS上でも結局「横のつながり的なもの」を中々に持っているものだし、且つ8月末頃からは、私人生上でも「片桐セリカ(公人)の顔」とは関係のない、やはり「『個人的な顔』で集まれる場所」に参加してみたりして、そこでようやくにして「人と人とは『対等』たるべき」ということを覚えたし、段々と素直にこうした「女性性にまつわるやり方」を取れる様になってきたな、と実感しています。


これが結局として「ウチの人(Gackt氏)直接つながること」に直結するとも考えられるもので、私が「女のやり方が不得手」だとしたらば、向こうのが元々、私との間で(畑は違えど)アーティスト/表現者同士の『対等な』関係」よりもむしろ「個人的な、『対等な』関係」の方を求めていたのではないか?…という様な気がします。


私はどちらかと言えば「公人(表現者)同士としての『対等さ』」を求めていたもので、その為この様に「努力に努力を重ねてきた」ものではありますが、まだまだ半端で、これが私の「女性としての限界」なのかもしれませんが(=つまり「独りでは成し得ない」。)、そういう意味で今は未だ「対等でない」にしても、「個人的な関係」に於いては、実は私の努力は「こっち方面に向いていた」様だとも言えるみたいですが、結局メディア/相手の社会的地位を『超えた』理解」が出来てはいるとは言える為、「個人的『対等な』関係」のが向いているとは言えるのかもしれません。





この話の「結論」としては、お互いに「理解し合える」からこそ、その分に段々と「お互いに欲すること」「お互いの想い」を分かり合えて、その分の「関わりが持てる」…つまりは「『当事者』として『首突っ込み/介入が出来る』」ということや、「ニーズを充たしたり、充たされたりすること」が出来たりする、ということで、その為特には直接話したりしてみて関わったり、そして相手について考えてみたりすることで、「相手を『識る』努力」が必要だと言え、それが「適う」だけ「つながれる」ということです。


その為には冒頭でも述べた様に、先ず相手を対等に感じること」が条件となる訳で、私にはそれがそもそも「欠けていた」為、どんな相手にも「不信感」をその分だけ募らせていて、「関わりようがなかった」。…しかし、今はようやくにして私人生上も、又SNS上も、少しずつですが「人と関わること」が出来始めている気がします。




→ようやく割と近くのビオトープで写真に収まることが出来た魚。
(多分メダカ。スマホのカメラ向けるだけですぐ逃げるのだ!!)
 本気でこういうビオトープやりたいです。