こんにちは、片桐セリカです。



どうやら今夜のフジテレビ・「TEPPEN」という(元々下らなそうで観ない)番組で、何と私が常々「才能がない」と批判し続けている「ハラミちゃん」「深田恭子」の二大出演という、悪い意味での「神コラボ」がなされることの様です。



それに先立ち、先日こうしたツイートを(実はまた酔った勢いでもありましたが、)上げていました。↓



もちろん文面通り「アンチ批判の為のもの」で、絵も以前上げたものの再掲でしかなかったのですが、結局今日の段階になって、これが一つの「ファンタジーの実現化につながった」ということが判明したものです。



つまり、「私の上げた絵の内容」「実現化した」ということで、「リアルさを孕んだファンタジー(※私のこの深田の絵が『似てない』様に、『巧さ自体』は実は関係ない。)というものはどこかで「実現化してくる」

これは「優れた漫画作品」とかで特に顕著な傾向だし、又ここにはリンクは貼りませんが、同カテゴリで考察した以前の記事でこの辺の詳細を私も語っています。






そしてもう一つ、今回はハッキリと「状況を受けた上での行動」を私が「したのだな」ということが実感出来ました。


このことが「何を示すのか?」というと、この「『TEPPEN』というアホな番組の放送」自体は「前もって決まっていた」筈だし、しかし私はここ数年ろくにテレビも観ないくらいに「無関心で、存在を(今日まで)知らなかった」訳で、その「無意識下にあった状況」に対して「私のツイート(行動)があった」ということです。


実は人生の端々にてそれを「実感出来る状況」は数多くあって、それが「酔った勢い」等の「無意識的なレベルのもの」が数多かった為、それで「中々肯定できなかった」というのはあります。


それもその筈で、実際に「酒酔い状況下でレイプされ(かけ)た経験」というのが何年も続いて、それを私も最終的には様々な意識化の過程を経て「断ち切れた」という面はありましたが、後年も親兄弟や当時の「友人もどき(@見下し魔)に、「酒飲むな!やめろ!!」と過度に叱責されたことにも表れている様に、根本的に「無意識に身を委ねる面への否定」「委ねたことへの処罰」を繰り返していたのだと思います。


「酒酔いレイプを狙う者」「酔っ払いをやたらに叱責する者」というものは、その人たち自体が「エゴイストでしかない」し、そうして「他者を処罰する中」で、相手に責任を押し付けている(投影している)」のだと考えられます。


特に「酒酔いレイプ」を考えてみても分かることなのですが、この人たちは必ずしも「酩酊状態で、相手が『確実に支配されてくれる』こと」しか求めていないし、「酔っ払いへのやたらな叱責」にまで広げてみても、その「支配される中」で、「相手に責任を押し付けられること」を分かった上でやっているのは明らかで、つまり彼らの理論としては間違いなく「意識を失って、『支配されること』を選ぶお前が悪い」といったところにしかないのでしょう。
(※「彼らの手口」からも、「意識を失う=支配の隙が出来る」だし、彼らが「支配権=真人間/非支配下の人=人に非らず」と見ていることからも、「意識を失う方が悪い」とおかしな理論を持ち出すのは明らかだと言えよう。)


しかし、「酔った勢い」=「無意識的」ではあります。
確かに「エゴイスティックで、不愉快な行動」を相手に対して取ることもある筈ですが、そういった側面をも含めて、その人が「周囲や無意識を信頼しているとき」というのは「無意識下なものを表現しているとき」という解釈が出来るのではないのでしょうか?


私も上述の「自己否定心の中」で、その「意識化の領域が深まる」程、「お酒を飲んで、無意識を表現させること」をし続けていたのだと思います。
(※「肉体的健康上へのこと」はともかく、ここ最近も「かなり大きなもの」を意識化せざるを得ないらしい。)


それを経ると、これまで確かに「意識を拡大出来た」訳です。
別に「無意識的な状態に落ちること」「悪いことじゃない」し、「押さえ込んでいたエゴイスティックな部分」「本音の部分」を吐き出すことによって「大きくなれること」はそれ自体経験が語るくらいに「確かなこと」でしかありません。


或いは表題通りの話に戻すとして、「無意識下にあるもの」=「自身の状況」で、先に言った「『悪しきの投影』を引き起こすお酒の飲み方」自体も含めて結局は、「『相手』という無意識下にあるものを表現した」ということにしかならない筈です。


つまり、「酒酔いレイプ」「酔っ払いへのやたらな叱責」を好む者は、むしろ「他者」を含めた「無意識的な領域への支配」を求めているものでしかない筈です。
(※思い起こせばほぼ例外なしに「この手の人種」「潜在意識理論的なものが好き」だったものです。「自分に全ては支配されろ!」…です。)


「支配者」として「される方」「されること(=無意識的になる方)を選ぶ人」を指して「悪だ」と叱責し、罰するだけで、結局単にいつもの「アンチ的な論理」の中の「劣等な方=いつでも『悪』の側」という考えしか彼らは持っていない。


むしろ「無意識的な領域」というものは、明らかに「支配出来る性質のもの」ではないと言えるものです。
「無意識的な行動」「自身の『無意識下の状態・状況』の全て」が反映されて出て来るのも、それが「セルフ(自己・無意識)に対する『個人の』在り方」でしかない訳で、そこには必ずしも「未熟な領域」も含まれる


それ故「エゴイスティックな行動に出る」としても、特に若くて未熟なうちは「仕方がないものだ」と言えるし、それ以上に「無意識的な行動下」で活性化している「未知の領域の存在」が大きい気がします。


それがある程度後の未来で「結実すること」も多いし、逆に「未来の出来事/潜在的に存在する状況」を反映して、過去の行動等が創られること」もある。


どの道我々は、その「無意識下の状態・状況」を受けた上での「行動をしている」訳で、それを素直に受け止めている程、「将来的に反映されるもの」はあるし、逆に無意識を「支配しようとする」程に、最初は相手も状況も「支配されて動いてくれる」のかもしれないが、それも究極には続かず、相手の「無意識下な行動」の中に組み込まれ、その分だけ「先見されてしまう」のではないか?とすら私は思います。
(※「今日のこと」「私の将来的な状況」としてあったということ。「支配」は究極には「相手や周囲の運命への支配」に達する。)





もちろん、「ファンタジーの実現化」「無意識下の状況を受けた上での行動」も、どちらも「平行的に存在するもの」です。


単に前者が男性性後者が女性性と関わりが深い、というだけで、男性・女性共々、「いずれに対しても意識を持つこと」は大事だとは究極には思います。


又、私自身「酒酔いレイプ的トラウマ」から、後者の無意識下の状況を受けた上での行動」に対して、(「それだ」と理解してはいても)中々に「肯定心を持つことが出来なかった」もので、しかしこうしたやり方や在り方を女性が識る」ということは、それ自体が結局「真の意味での『男性の受け容れ方』につながる」ということも同時に言える筈でしょう。