こんにちは、片桐セリカです。



久々に「深田恭子ヲタ・私アンチ」が出て来た訳で(→しかもこなアカウントのトップ覗いたら、「女」と判明した…。)、まあ、こんな感じです。↓

(…ね?名前的に「男っぽい」っしょ?因みにリツイは私です。引用しました❤️)



正直毎回アンチには「ムカつかされる」訳だが、別に私個人としては「アンチの発言すら自由」といったスタンスで、その分こちらも引用リツイしたりと、「やり返すことはやり返す」



逆に「アンチたち」というものは、毎回そうなのだけど①「『批判』と『アンチ』の区別が付いてない」し、又②「イチイチ批判ツイートに首突っ込むこと」しかしない。更には必ずしも「お前ツイートやめろ!!」的に③「力づくで相手を動かす考え」しかしないし、且つ④「他方の選択を容認しない」訳です。



詳細は他の記事でもやってますのでここでは簡単に語りますが、①「批判」は単に「事実を述べているだけのもの」で、「アンチ(の叩き)」は必ずしも「盲目的なもの」「こき下ろし的なもの」「事実に反するもの」でしかないということ、②「アンチの首突っ込み」は、それこそ「無節操さ」「避けるべきものを避けない姿勢(※危険回避能力に欠ける)でしかない(…「嫌いなもの」「避けろ」「スルーしろ」よ。私も「見ない」ぞ。)、③私でも「アンチのクソツイ自体」「容認している」訳だが、つまりはそれを「『やめろ』とは言わない」。アンチ側が「批判」に対してそれを「『やめろ』とする」のは、単なる「他方への『力による』黙殺の促し」でしかない。④③もそうなのだが、「他方の選択の存在」この人たちは分からない。私でも「深田恭子好き」に関しては、如何に深田恭子自体は「害悪な偶像もどきでしかない」にしても、別に「好きなら好きでいいさ」としか思わない(どうぞご自由に)。

(…「いい人な深田ファンな方」については、私も「口出ししたくない」。それこそ「自由」だ。)





(※②について補足。アンチは大体「#深田恭子」とかで検索した結果なのだろうが、そうして「無分別に検索かけた場合」には必ずしも「欲さない情報も引っかかる」訳で、それを「スルーしたりする/情報選別の責任」「当人にある」。→私は故に、イチイチ「検索をしない」「選んだ情報源」の中(=飛び込んで来る情報の中)で対処する

私の場合、「『私のところ』にアンチがやってきた」という分「事情が違う」訳で、こうして「飛び込んできたものへの処理」というものは、これは単に「自分の持つ現実の受け止め」の問題で、「対処する責任そのもの」が出て来るだけである。)



話は長くなりましたが、これまでも再々意識化してきた様に、「アンチ」とはどこもかしこも「ツッコミどころだらけ」でしかない訳で、結局今回思ったことの一つとして、

「そう何度も私のツイート見てイライラしたのなら、私に『しつこい!』と言う前に、ミュートなりブロックなりしろよ!」

…といったことで、これはどう考えても「至極当然のこと」としか思えないし、同時に「私のアカウント」自体、(未だ古いVer.の固定ツイートやモーメントでも言ってる様に)そもそもその「一つの顔」として「深田恭子批判アカウントでしかない」訳で、それを「好まない」のなら、とっとと「避けるにこしたことないよ」ということです。




(※これも「大物と小物の違い」の様なもので、①私は「アンチの存在」「容認している」分、「ミュートもブロックもイチイチしない」し、その辺が「大物の在り方」なのである(=「大物」こそ「敵の存在を容れている」)。


②逆に「アンチ共」は、先のアンチにもよく表れ出てた様に、「反対側の人の存在」を絶対に「容れようとしない」。つまり彼らにとって「アンチ(敵)になる人の存在自体」「世の中的に許せない」みたいに見ている。これは「小物な在り方」で、必ずしも彼らは「力による敵の排斥」をしようとするが、「敵の存在を認められない」のなら、(ツイッターなら)ミュートなりブロックなり鍵かけるなり、或いは「やめる」なりして、その「個人的な世界でのみ生きる方がいい」(=「敵がいる」=「公」なら、彼らはそれを「理解してない」し、相応に「公に出る資格がない」ということ)。)


(※考えれば考える程、このアンチは「支離滅裂」だ。私は別にこの人に何度も直ツイして、嫌がらせをした」とかではない。それを「ひつこい!」って……。)




そして今回はもう一つ、「決意」がつきました。
(先日みたいな「マトモな方」との「建設的な議論」も大いに容れると同時に)「アンチとは闘う」


昨日のこの記事↓

…でも言った話ですが、どうしても私の「批判的な/好戦的な性質」から考えるに、結局私自身が「『闘う運命』から逃れることが出来ない」ということの様です。


今は未だ「個人アカウントなアンチ」ばかりとやり合っていますが、元々(特に前アカウントとか)「単に傷付くばかりだった」のが、今やこうして「決意が持てた」くらいに「強くなっている」


私も「女」故、元々この辺「弱い」し、「強くなるのも大変だった」ものですが、しかし「女」でも『闘う運命』にある」のなら、「『女』であること」を言い訳にせず、それでも「強くならないといけません」


私は「当たり障りのない発信(ツイート等)をする」よりも、むしろ「『敵』を呼び込むとしても、『闘う』方が好き」な様です。


「アンチ(敵)との闘い」は、それ自体を私をきっと「強くしてきた」し、今は「個人・単数」でも、段々と「個人・複数」、そして「公人(企業・有名人等)みたいな形で「益々大きくなる」筈で、そうして「目標の為に前に進む(※私の「敵の想定」は、割と「マスメディア系自体の批判」等を繰り返している様に、「大きいものが多い」です。)にしても、だからこそ「闘いを重ねて、強くなること」をしないと、その分「『大きい敵』と渡り合えるだけの強さを持てない」し、そして「『目標/大きい敵』に届かない」


その意味では「深田恭子自体」も私にとっては「敵」で、(実はツイッターでチラリとは言いましたが、)10年以上前に「堂本兄弟SP」で、当時から「結婚すべき人」と認識していたウチの人(Gackt氏)に対して、畏れ多くも(※深田みたいな「素人ちゃん」にはこれくらいが適当。)「ファンなんです〜❤️」と近寄っていたことがその辺「磐石化させた」し、そしてその後くらいからの「スタイル悪い水着姿」です。


…つまり「才能ない女の『不埒な』行為」、或いはこの様な「おかしな存在の偶像化」に対する「『真に才能のある女性たち』の社会進出の妨げ」に対して私は憤っている訳で、「他の女性たちを代表して」もありますが、当然「私個人としても邪魔された感」がハッキリ言って強く、その分「当事者でもある」訳です。


「ヲタ」は、そういう「おかしな偶像」「一部分の顕現でもある」とも捉えられる訳で、「辿り着きたい」のなら、「ヲタとの闘い」も非常に「有意義な経験となる」と言える筈です。


なので今後は怖がらずに、堂々と「アンチと闘います」