こんにちは、片桐セリカです。



今回はこの記事↓『「反映される自己」について。』こんにちは、片桐セリカです。ここ数日「連投」続きでしたが、「今考えなければならないこと」が色々ある為どうかご容赦の程を。私も8月半ばごろを「始まり」として、9…リンクameblo.jp

…の補足となるもので、まあ「結論」から先に述べるとすれば、


「真の正義を持つ」からこそ、「味方」も現れる

「真の正しさを持つ」からこそ、「賛同する人」も現れる

「真に必要を与えられる」からこそ、「需要」が形成される

「真の理想像を体現する」からこそ「人々に好かれる」






これらについて「否定的な例」をこれから挙げていくこととします。


「正義」について。…今日たまたまニュースが目に付いたので例に出しますが、「伊藤詩織氏」とかはまさしく「自身を頭から『正義』と信じ込んでいるタイプ」で、これも当然単純な「レイプ加害者=悪/被害者=正義」という考えに由来しているものでしかない。


本来は再々私も言ってきた様に、何かしらの「自分の抱える『悪しき』を疑い、葛藤する過程」があります。
…が、伊藤氏にはそれが「ない」様で、その分と言うか、「権力的に相手を『支配』する傾向」「とても強い」と感じられる訳で、その証拠に「全てのアンチ・批判」「存在を許さず、力で排除すること」をしている


「#MeToo」や、「環境正義(もどき)」「グレタ・トゥンベリ」等にしても同じなのですが、結局彼女らこそ彼女らが批判する「権力的・暴力的な存在」と同じで、何でも「相手を『力により』支配し、動かすことで『解決した気』でいる」訳で、確かに「正義」を言い訳にして「暴力を容認し、行使する奴」はいる(※「精神病棟に私を『拉致した』親・兄弟・親族は典型で、「やったこと」は「近親レイプ」に等しい!)…が、そいつらこそ「悪」よりも「最悪である」ということは言うまでもありません。


或いは彼女(=アニムスに囚われた女)たちは、「味方=数の暴力」という見方しか結局は出来ていませんし、その分「味方を集めたがる」ものです。


その中で「少数派を攻撃する」のが関の山で、しかし、その分本質的に「悪」故、結局として「敵のが増えてくるのではないか?」と私は思います。


「正しさ」について。…これも少し前の記事でやりましたが、「肩書き」=「正しさ・良心の側」という鵜呑みをする人程、実は「アンチ体質」だったりします


で例に挙げた作家と新聞記者が「典型例だ」と私は感じる訳で、彼らのツイートや記事内容自体、本人は「批判をしているつもりなんでしょうが、結局「単なる噛み付き」「アンチな反応」にしかなっていない気がします。



それも彼らが「自分=肩書きがある=その領域に於いて見識がある」とか、「相手=批判されて然るべき立場」とか、そういった「肩書きからの決め付け」由来の勘違いを起こしているからで、この体質は実に「ガチなアンチと変わらない」

(※ガチアンチも、「深田恭子=女優=スタイルいい」的に「決め付けて眺めるもの」です。→深田は「女優」であるなしに関わらず、「スタイル悪い」です。)



本来は、「専門性を養う」からこそ「意見出来たりする」「それなりの『正しさ』を持てる」というだけで、「肩書きから決め付けて、語ること」は、(私も先日それで「大失敗した」様に、)いつも間違いなく「考え方・見方の偏り」を産みます。(つまり、まるで正しくない」。)





(※或いは「今、トップの人たちの間で最も主流な/イケてる考え」みたいな「優越感」にも彼らは囚われがちだとも言える。この「東洋経済オンライン」の記事↓

FIREを目指す人が知るべき「3つの不都合な真実」 | リーダーシップ・教養・資格・スキル最近、ビジネスパーソンの間で「FIRE」が注目されています。FIREとは「Financially Independence, Retire Early」の頭文字で、若いうちに経済的に自立し、仕事を辞めることです。ネットや雑誌では、「30代で億り…リンクtoyokeizai.net…にある「FIREという概念に囚われる人」も、「セレブ」「デキる人」という「優越な存在」に囚われてるのは明らかで、よくよく考えてみたら「単にお金持ちになって、早期退職してニートになる/腑抜けることを選ぶ」といっただけの話に過ぎないと。(「自分のこと」しか考えてない典型でもある。))






もちろん「真の正しさ」「賛同者を呼ぶ」とも言えるでしょう。

(※「肩書き」や相応した「多数派の側」に、彼らは「賛同が集まり易い」とすら考えている筈ですが、実際には彼らは「正しくない」。故にどこかで「批判が殺到する」でしょう。)



「需要」について。…これは根本的に「不必要の押し付け」こそが問題の様に感じられます。



(最初に投稿したものから例を変えますが、)「深田恭子」なり「翔んで埼玉」なりが、典型的な「捏造流行」で、或いはコロナ前まで流行っていた「タピオカドリンク」にしても、「売り手側の都合なだけ」で、別に「買い手側のニーズ」がある訳でもない

(※「深田恭子」「翔んで埼玉」は、そもそも「才能もない」し、相応して「商品価値もない」。故の「捏造流行」と。)



これらは確かに「ニーズがある(様に見える)」…が、実質的に「不必要」且つ「搾取的」で、つまりは「バズっている/バズること」=「需要がある」と勘違いしているが故、その同一化から、「人々の本当のニーズ」「奪い取る様な結果」にしかなっていないと言えます。



或いはそもそも「『不必要』が『必要ヅラしている』」分、相応に「『必要』が供給されなくなる」訳で、この記事等↓『「子供の性行為」に親介入するな。』こんにちは、片桐セリカです。今日は後一つは投稿する予定です(笑)。またしても沖縄タイムスに載っている「アホな早期性教育の連載」から。↓…アホですよね。本当スト…リンクameblo.jp

で扱った「早期性教育推しのバカ」とかはまさにその「典型例」で、子供に「不必要な性」を押し付ける分、子供が真に必要とする「ぬくもり(=真のつながり)自体」を「奪い取っているもの」でしかない。



これも彼らが「我々はバズっている=『ニーズの』側」「自惚れていること」「同一化していること」に由来している訳で、しかしその分明らかに「他人や周囲の真のニーズ」「理解してない」し、同時に「自分の欲」を周囲に「押し付けること」しかしていないと言えます。



故に「不要の押し付け」、彼らの君臨による「真のニーズの搾取」が起こると言える訳で、しかし本来としては、「自他のニーズの客観が出来る」からこそ、真に「人々のニーズに応えたもの」を「供給出来る」と言えるし(※単純な話、人って「今ここで、相手がそれを必要としてて、困ってるな」的なところを知って、「その為に動くもの」でもある。)「奪い取る=害悪」に対してそれが「役に立つものとなる」と考えられる訳です。



(※このブログだって、「小難しい」ですが、「人に役立つ知識」は十分に詰め込んでいる筈です。→故に「真のニーズには応えるものだ」と。)



「理想像」について。… 例えば「影響力」の中で「害悪を与えているもの」がそれで、例を挙げると「暗殺教室」にしても、基本的に「良作ではある」ものの、「表層上の美=イイ女と見做す」「表層的技巧=才能・天才・万能という考え」等、「今の世の中に影響している害悪」が確実に見られるし、その手の「表層上の才能」「表層上の美」の中にある「ハラミちゃん」やら「ローラ」やらは、私みたいな「真の才能を『殺す』在り方」しかしていない為、本当「害悪な存在」でしかない。



或いは芸能人にたまに見かける、「『ドン引きな話』を平然と出来るヤツ」が、そうした「理想とは対称的な例」と言えるでしょう。



彼らは「タレントという立場」=「既に理想像」と思い込んでいるからこそ、その自惚れの中でまるで『理想とは逆な』在り方」を平然と「表に出したりする」訳で、しかし「自惚れてる」分、真の意味で「自他の想念の客観をしたことがない」が故、当然ながら「人として『クソな』在り方」しか体現出来ていない

(※実に「ウチの人」も、この手の「ドン引きな芸能人でしかなかった」です。「女(ビッチ)たちとの性関係の話」とか実に「小汚かった」ものです。)



逆に「人の想いや在り方を、経験的に知る」からこそ、その分だけ当然「人々に好かれてくる」と言えるし、真に人々に「理想を伝えられる」とも言えるでしょう。






上述の例の「困った人たち」は、結局いつも「自己(セルフ)と自我の同一化を起こしている」と言え、つまり彼らは「自分を『神かの様に』見做している」ということです。


本来として「自己的領域」「大きなものの見方」は、様々に葛藤を経て、その中で「人(々)」というものを知った上で初めて形成されるものですが、彼らにはまるでその過程が欠けている


先にも言った様に、「立場/社会的地位」からハナから、「自分は『正義の』側。」とか「思い込んでいる」「決め付けている」といっただけで、しかしその分「自己領域の意識化もしてない」「他人を知らない」からこそ、いつも何かしら「下らない、『エゴイストな』在り方」にしかならないし、同時にこの人たちが相手を「悪しき」と決め付けて見ている部分について、それが必ずしも「自分自身であること」、即ち「自己投影を必ずと言っていい程起こしていること」は言うまでもありません。





そして、私も「対等さを知らなかった」分、上述の「否定的な在り方の人たち」と「同一化していた」訳で、それ故に「私は嫌われる」とか、ごく「固定観念的に考えていた」ものです。


…が、よくよく考えてみたら、これまた先に考察した様に、「対等さを容れている面」があったからこそ、相応に「培われている人々の像」みたいなのがあって、それを持つ人が本来は(「表層的な生き方をする人たち」とは違って)真の意味で「人に好かれたりとかするのだろうな」と改めて感じさせられました。


そして、「どんな他者でも『対等に』見做す」からこそ、その分の「横のつながり」みたいなものが出来て、もちろん「『持ちつ持たれつ』が前提」とはなりますが、「必要なものをくれる人が現れる」とか「追い込まれてるときに味方が現れる」とか、適宜適時「お互いに充たし合える部分」が出て来るのではないのでしょうか??




→これはマメクワガタ。貰い物です。
 オスメス不明な品種なので、果たしてオスメスペアで繁殖してくれるか…。