こんにちは、片桐セリカです。



今回は「ハラミ批判」を繰り返し&交えつつ、この私の記事↓

…の「まとめ」の様な話をしていきたいと思います。





「表現」=「対象をリアルに表すこと」
 …上に載せた記事の中でも十分にした話ではありますが、「表現」というものは、如何にその対象を「具体的に、ありありと表すのか」が問題なのであって、その「表現力」の為に、「上手くなりたい」とか痛感して、その上で「腕を磨いていくもの」でしかない。



(※因みに「美の追求」についても同様で、(ローラや田中みな実の様な)「自己顕示欲の為」「優越感の為」「ひけらかしの為」にそれを求めるのでは決してなく、むしろ「公に出す表現として十分適う、整ったもの」「アートとしての美の追求」のが本質で、そこには当然「醜の中の美」というものも存在します。)


(※又、「美しさを磨く/体を鍛え上げる」でも「料理の腕」でも、そこで「表現をする必要性」を見出して初めて「鍛え上げようとするもの」な気がします。
 昨今ありがちな「尻トレ」的なものは、単なる「優越心を充たす為」でしかありませんね。)




「ハラミちゃん」は、上載記事でも十分に語った様に、単に「技巧のひけらかし」に終始していて、「対象を表すこと」に関して、何も「出来ていなかった」


他昨今の「同人レベルな(プロとは言い難い)プロ漫画家」についても同様のことが言えますが、彼らもとても「絵は上手い」…が、もちろん「自己顕示的」だし、単に「巨乳」とかそんなのばかりを描いて、「相手にウケること」しか考えていないし、そもそもまるで「リアルな何かを描くこと」をしていない。

で出した漫画家なども「好例」かと。

「絵は上手い」し「方言も合ってる」…が、「リアルな沖縄の学生像」から何から「描けてない」と。





「相手から感じたこと」のアウトプット。
 …これはどちらかと言うと「女性的なやり方」で、何かしら「相手と心を通わせた経験」、或いは「相手と心を通わせて行う必要のある表現」に於いて、そこから「相手の目線」「相手の主観」になって感じて、それを「自分なりに表現する」といったことがそれに当たる。

これが本来の意味の「感情移入」で、よくSNS的な感じで知られるそれは、単なる「同情」で、平たく言えば自分が「いい人と見られたい」からこそ、何かしら「可哀想なもの」とかを見て「涙する」的なものがそれであり、例えばあのグレタ・トゥンベリも、「ホッキョクグマの現状」を見て「涙した」というエピソードが知られているが、これも単なる「同情」に過ぎない




(※「自然好き」の私としても、「ホッキョクグマの惨状」は以前から知っている分、とても「心苦しい面」もあるし、「人間って酷いな」とも思うものだ…が、正直「遠くから眺めてる感」「感情移入し切れない部分」が否めない訳で、それだけそれについて「涙する」なんてことがあるとしたらば、単に「涙腺緩いだけ」「同情している自分の優しさ(?)に酔ってるだけ」でしかなかろう。)



或いは「感動しがちな話」とかに、「泣くべき話だから、泣く」的に、「杓子定規的に反応している」に過ぎないものが、よくある「感情移入もどき」で、ハラミちゃんは「この辺のこと」に関しては、正直私も「調べ足りない」ものだが、しかし、単なる「感情屋」程、「自分は優しい/『善い』人間だ」と思い込んでいるクセに、まるで「人の感情に寄り添おうとしない」し、その分「自分たちの快/不快」から全てを測って、「自分が不快」なら、即刻相手を「酷く切り捨てる」ものでもある。
(※実質非常に「冷酷」なのだ。)


これは、「例のハラミヲタ」や私の前アカウント時にいた「バカ女たち」にまるで当て嵌まる話だが、「ハラミちゃん」にしろその「演奏のやり方」は、(「最初全く合わなかった」とダメ出しされてたくらいに)「相手の想い」を知ろうともせず、「独りよがりだった」のだろうし、その辺は観ている私にもよく伝わりました




「小物感」しかない。
…ハラミちゃん本人のツイートを、(例のハラミヲタの私に噛み付いてきたバカのツイッターから辿って)いくつか見てみたのですが(※全てのツイートにウザい絵文字付き。私には再現出来ない。)


「新しい帽子買ったよ❤️(←正直『有名人』であろうが『どうでもいい話』。)


とか、


「ハラミ、ついに女優デビュー?!(←調子…。)


とか、はたまた全体的に自分を撮ってもらった写真は(SNOW的な)加工がしてあったりとか、正直

「そこら辺の、インフルエンサー系の個性のない女たち」の様なスカスカな話

で、本当「小物でしかないな」と私は思いました。
(※私がもう少し若くても、「ああいったツイート」は「しない」と思います。)


もちろん「素人臭い、無個性さ」もそうなのですが、「ある社会的地位」を持つのなら、それに「相応した行為や在り方」を「わきまえるべきだ」ということで、例えば先日私も運転しているときに、「ここ、クラクション鳴らすトコじゃないだろ?!」というトコで、某沖縄県内有名企業のロゴつけた車に鳴らされてしまいましたが、彼らにしても「企業の看板を背負って運転している」のならば、一般の運転している人以上に「他人を想った運転」「するべきだ」と思います。



(※これとは「逆の例」「バスの運転手さん」で、彼らは歩行者や対向車にきちんと「譲ってくれます」。)



こうして、「ある社会的地位」に対して必ずしも「責任が伴って来る」のは明らかで、単に「社会的地位のみがある人」「そういった自覚に欠ける」為、行動や言動、在り方として「わきまえないもの」になってくる訳で、先の某県内企業のドライバーにしてもそうだし、「ハラミちゃん自体」にしても、「自覚がない」、そしてそもそも「素人な在り方でしかない」が故に、どこまでも「そこら辺の素人インフルエンサー女子」な在り方にしかなれず、結局「小物だな」と言わざるを得ないのです。



(※そもそも「大物」は、地位的に(今は)「小物」だろうが、その辺「大物らしい行動等」を取るものでしかない。他ならぬ「私」が、その辺「理解している」。)



「エンターテインメント性」に欠ける。
 …一見「ハラミちゃんの技巧」は、「エンターテインメント性がある」様に見えるものではある…が、例えばかの安室奈美恵さんのダンスや歌みたいなものと比べて、安室さんのパフォーマンスは本当の意味で「魅せていた(=エンターテインメント性があった)」のに対し、ハラミちゃんのそれは、何も「面白くなかった」「魅力がなかった」訳で、それだけひけらかしでしかない」し、恐らくは自分が楽しいだけで、本人が「楽しんでいる様に見えた」にしても、それはファンの人やヲタらが、「ハラミちゃんの一人プレイ(←この言い方、『かなり』乱暴ですが…。)に対して「『いい!』と言っている」だけでしかない。



(※安室さんはご自身のパフォーマンスについて、「楽しんでおられた」のは確かである(=ラストツアー・東京ドームでの「太陽のSEASON 」)。
 対してハラミちゃんは、こちらが見ても「楽しくない」くらい「自分に酔っているだけ」でしかなかった。)



やはり、「他人を魅せる表現」というものは、どちらかと言うと「技巧的なもの」でも、間違いなく「自己客観が入って来る」、つまりは「自分がそれを見て、楽しいか?」という視点が不可欠となってくる訳で、故に私も自分がSNSで投稿したものをよく見直します。
(※殊最近、インスタグラムの本アカウント・写真用共々自分で「面白いな」と感じられる様になってきたものです。)

しかし、「自分が楽しんでいるだけのもの」は、そうした「自己客観に欠ける」訳で、大体そういった人は、例えばローラとかの様に、「自惚れ屋さん」だったりする訳で、こうした自己客観に欠ける人の表現『もどき』」というものは、結局客観的に自分を眺めてみて、どう感じるのか?」という視点に欠けているとしか言い様がないし、或いはだからこそ、「他人から見て、楽しく感じるもの」を「分からない」分、いくら「自分が楽しい」にしても間違いなく「独りよがりにしかならない」

そして「自惚れ」「自己陶酔」の様な「イヤらしい心理」の中にしかこの人たちはない為、他人からして本当「不快な表現(にもならない表現)にしかなり得ない」のです。


→本人ツイッターに浮いてた写真を参考にして描いたら、似てるじゃないか!!
(こうして「嫌いな人」「上手く描けたとき」本当嬉しい「嫌い」と言って「偏って眺める」「表現に非ず」。)