こんにちは、片桐セリカです。

今回は
…の記事とも関連した話になります。


人生に於いてしばしば、①「絶望的な運命へのヴィジョン」を見させられたり、或いは②実際に「閉じ込められてしまう状況」すらあったりするものです。
これは「男性的な」運命についての考え方なのですが、「動くこと」によって「打破出来ること」は多いです。


この「好例」として、「ジョジョの奇妙な冒険」第4部の「バイツァ・ダスト」のエピソードが例えば挙げられるものです。
あの中で川尻少年は、「絶望的な運命」「抗い様のないもの」として見させられてしまったのだが、実はそれに「抵抗」して彼なりに「打破しようと(少しずつ)動いた」からこそ、「絶望的な運命」から「抜けることが出来た」と解釈出来ます。


更に「精神病棟に閉じ込められていた頃の私」について振り返ってみても、当初は本当に「二度と出られないのでは…?」「恐怖」が付き纏っていた訳で、しかし実際にはあの「動けない中」で私もよく「動いた」ものです。


その「行動」というものの「代表的なもの」として、(1)こうした個人的考察の継続」と(2)「テレビ権の占有」にありました。

(1)に関して私は「デイケア的活動(※…という名の「遊び」です、ぶっちゃけ。「治療の一環」とはされてるが、ただの「暇潰し」。無意味。)」とかにも参加せず、故に「何もしていない」と看護師連中らに思われていた様ですが、①「デイケア」みたいな「無意味なこと」より余程「身のあること」はしていたし、実際「意識化・思考や心の統合化」をしたからこそ「改善した」としか言い様がないし、又②「あの状況・環境(=閉鎖病棟)では、正直「(外的に)動ける訳もない」
(※私のこうした「意識化」「考察」的なやり方は、ガチな「精神病患者」にも本来は「効果てき面」な筈で、「デイケア」や「薬漬け」みたいな「無意味なこと」より余程「治る」かと。)


(2)についてなのですが、病棟の方に「皆で観る用のTV」があって、それを大体「私が占有していた」ということで、人によっては「身勝手だ」「他の人の権利…」とか、私に対して思うものかもしれない…が、「理由」がそこにはある。
①看護師連中は、私が周囲の患者たちを「威圧している」的に見ていた様だが、実際物事や人を、「力づく(=看護師権力の行使)で"いつも"動かしている」のは「彼ら」だったし、「患者ら」にしても「そういうやり方」しか知らない。
それを私は「パロディした」だけで、或いは「患者ら」と「私」とでは明らかに「格が違う」
それ故彼らは私に「負けた」だけで。

②当時として私は「周囲」と闘って「その権利」を得ていただけ。
(この人らが思ってた様な「力での略取」では全く以ってない。)
(※「格の違い」…「精神病棟の中の人ら」は「患者」も「職員ら」も、「男/女」や「看護師等(マトモ)/患者(異常)」等の「表層的社会的地位」から「人の格」「決め付けるマネ」しかしなかった。
 こうした人らは「権力」でも「暴力」でも、「力づくで、無理矢理動かすこと」しか求めないが、「格を自覚する者」は、その「格」と「己の行動」に相応してしか「物事や人は動かないこと」をよく知っている。)

③そこの患者たちの「無秩序さ」「行動の意味のなさ」を私も「分かっていた」為、「私を優先した」までのことで、つまりは「現実にそぐなった動き」を私もしたまでのこと。
(※彼らは「病棟から出る気」もなければ「暇潰し」しかしないし、「生活」も人任せで、「人々との関わり」というのも知らない。
 これは「長期患者の現実」でしかない。)

④「私個人のこと」として、「メディアに出る仕事」や「辿り着くべき場所」として「メディア的な人らとの関係」がある。或いは「病院から出る為」「外部の世界がどうなっているのか?」「知る必要があった」。故に「私を優先させた」というのもある。
(※「イメージを持つ(=現実を知る)」ことにより「開ける世界」はいくらでもある。こうした「イメージの形成」は、単にTV等観ている患者らには不能。
 或いは「抱える公(おおやけ)度」「将来性」が、私と彼らでは「まるで違う」。この辺の「自覚から」でもある。当然看護師らは「表層的社会的地位」から私と彼らを一緒くたに見て「イヤな平等」押し付けてきたが。)


「精神病棟から出られた経緯」もそうだったし、案外と去年も「はしり」的な感じでも、こうした「公の場での表現」が出来る様になって「動いた現実はあった」訳で、どんなに「閉ざされた場所・状況」「太刀打ち出来なさそうな状況」「直接的な働きかけが出来なさそうな状況」でも、人間「一歩でも動くこと」により「打破出来ること」は必ずしもあります。