10月に入るとベッカーCPAリビューの授業が始まった。授業は土日のみで平日はまだ少しだけアダルトスクールの日程が残っていた。講堂での大人数での授業のためか、50人以上はいると思われる生徒の名前を2回目には全て暗記して何も見ずに出席を取ってしまった凄い先生がいた、ということ以外は取りたてて何も覚えていない。つまり、授業を理解する以前に改めて言葉の問題に直面してしまったのだ。実際のネイティブスピーカーを相手にした英語というのは、こんなにも聴き取れないものなのかという新たなる発見である。日本で聞ける英語はどんなに早口でもそれがテレビやラジオを通したものである限りフォーマルなものだし、また語学学校での先生の英語も言葉を選んでのものだった。それが一般人による一般人向けのものとなるとちょっとしたクセが厄介なものになってしまう。ロスに来て6年になるというインドネシア人の受講生がいたがある程度わかるようになるのに2年かかったという。そういえば、アジア系や日系人の生徒が多いのも印象的だった。ただ、彼らはそんな俺の落ち込んだ気分を知ってか、気さくに話し掛けてきた。石川好の「ストロベリーロード」なんかには、日系人には白人を意識する屈折した感情があって、日本人にはよそよそしいなんて書いてあったが、60年代と違って、LAのダウンタウンのビルの7割を日本人が所有する今では、そんなものも関係ないのかもしれない。日本人街からちょっと南下すると浮浪者等がたむろする一転して超危険ゾーンとなるが、リトル東京からバスで10分ほど南に位置するこのホスピタルセンター近辺もちょっと恐いところだった。
そしていよいよ11月。実は日本での履修科目など受験資格に関する、審査機関からの文面がどうもあいまいで本当に受験できるのかどうかずっとわからず気が気ではなかったのだが、こっちに来てから最終的な申込書類を送ってやっと手元に正式な受験通知が来たのだった。それにしても3年前に旅行者として来た時の、カタコトでも何とかわかってくれようとするやさしいアメリカ人しか知らなかった俺が、今回受験の申請やらでいろんなオフィスに電話をかけたりした時、職業人としての彼らはうってかわって多少意味が通じてもわからないふりをしたり、しゃべれる人間にかわれなどと言ってきたりという、カタコトの人間に対しての今までにない冷たさを実感することとなり、これもアメリカなんだなと改めて思った。
さて、2日間の日程で試験地のポモナへ行く事はわかった。ところが試験会場に関する交通案内等が皆無で、バス会社に直接聞くなどまたもや苦労させられてしまった。結局、まずは約50マイルの道のりを高速バスで向かい、そこからローカルバスに乗り換えるところまではわかったのだが、会場のポモナ・フェアへは行かないという。だがそんな俺を見かねてかバスの運チャンはコースをはずれて会場付近まで乗り付けてくれた。ちなみにポモナ・フェアは昔日本人の強制収容所があったということをあとで知った。丸一日かけて初日の試験がおわり会場を出て途方にくれていると受講生の一人が車で最寄りのバス停まで乗せてくれた。
ところで2日目は俺はどうやって行ったのだろう。とにかく覚えているのは夕暮れ時帰りのローカルバスで学校帰り(?)の少年が疲れきった表情で乗ってくるのをみまもりながら、ロサンゼルス中心部とはまた違ったごく自然な田舎のアメリカ人の空気を感じ、なんかいいなあ、同化したいなあと感じていたことだった。そうか、昔石川好もこの辺にいたんだなとか考えながら、バスを下りてレイナード・スキナードの「Free Bird」(あまりに広大で寂しげで人恋しくなってしまいそうなこの土地に、何とこのメロディーが合うことか!)を口ずさんでいると、ふいに俺を呼ぶ声がした。見ると昨日俺を乗っけてくれたローカルバスの運チャンが窓から顔を出しているではないか。昨日逢ったばかりでもう友達になれてしまうのか。なんて国なんだ。俺は心底嬉しくなってしまった。が、同時に今日でここにくるのが最後だと思うと、やりきれない気持ちでいっぱいになった。ハイウェイバスの停留所をやっとの思いで見つけ、バスに乗り込むと再びアクシデントが待っていた。走行中いきなりパーン!と音がして、俺の前の座席に座っていたごつい黒人のおっさんをのぞいた全ての乗客はすばやく床に伏せてしまったのだ。黒人のおっさんは恐らく解ってて動かなかったのだろうが、俺の場合単に何が起きたのかわからず、石のように動けないでいただけだった。結局銃声ではなかったのだが、またしてもここはアメリカなんだと改めて感じさせられた瞬間だった。
俺ははっきりいって試験結果にはあまり自信がなかった。目の調子があまり良くなく、勉強に身が入らなかったということもあってか、何となくもうしばらくはアメリカには戻ってこれないのではないか、と思い始めていた。帰りの切符を買いにロサンゼルス空港へ向かうバスの車中でも何か気分はうつろだった。
出発の日、俺の頭の中では、R・スチュワートの「Maggy May」の乾いたメロディーが離れゆくアメリカへの追憶およびセンチメンタリズムを総括していた。そして改めてこの国の空気って俺に合ってるんだなと実感せずにはいられなかった。それだけに俺がこの地を再び踏む日はいつになるのだろうか、と考えずにはいられない。