高校生

まず初めに説明しなければいけないことは、高校受験を経て高校に進学したこと。そして、第一志望に落ち、泣く泣く常人から馬鹿にされる高校に入ったことだ。

そして、始めて勉強をして視野が広がったおかげで、書くことがたくさんある。

高校受験に失敗したことは私の人生で一番のショッキングな出来事だった。そう思うほどに、志望校に執着心があったのか、勉強などの努力をしたのか、と言わればNOと即答できる。目指した高校は周辺地域で真ん中くらいの普通の高校。勉強もほとんどしてない。前述した通り、ゲームしかしていない。

何がそこまで悔しかったかというと、自分と同程度や下の学力を持つ同級生が受かったこと。

正直、自分が落ちると思っていた。高校受験が終わってから、結果発表までずっと不安だった。案の定、番号はなかった。意識が遠のき、現実味が薄れていった。ただ夢を見ているだけ、と言った感覚や何かの間違いで番号が無かったと現実逃避を脳が勝手に始めた。

現実を受け入れたのは、家に先生が高校の二次試験の説明をしに来た時だった。何もかもが、どうでもよくなった。あんなに好きだったゲームですら、興味を無くし、ただ布団に横たわりながら壁の一点を見つめたいる。視界は滲み、頭の中は落ちた一部始終の光景を永遠に再生し続けていた。

結局、地元の下から二番か三番目の高校を受験し、受かった。受けに来てた人は、10数人だった。態度の悪い生徒はいたが、そんなのどうでもよかった。結果なんかは、もっとどうでもよかった。この時から、早く4にたいと希死念慮を抱くようになった。

そんな自分を見兼ねて、家族が優しくなった。あの兄ですら、きまづさを察知して、当たり隔たりのない言動をした。母親は、落ちたからといって4ぬわけじゃない。天才や偉人といわれる人達はみんな挫折を経験している、と励ましていた。これがきっかけで、高校生になって初めて勉強をすることができた。

私が勉強を通してわかったことは、勉強できるということは恵まれている。これはある有名な予備校の先生も言っていた。言っていることは、同じでもその結論に辿り着く過程は違うと思う。私がそう思った最大の理由は、勉強をするには整った環境や安定した情緒が必要だと経験したことから。私が勉強をせず、ゲームばかりしていた要因として学校でも家でも本音が言えず、居場所と呼べる場所がゲームにしかなかったからだ。これがどう関係しているかというと、勉強はインプットとアウトプットをする必要がある。まず、インプットをするにはそれが入るだけの余裕が無くてはならない。私はお喋りなのだが、自分の気持ちについては56歳から言葉にしていない。受け入れられた経験が無いため、言うだけ無駄だとその年で理解してしまった。これがいけなかった。口にしなかった本音は、頭の中で残り、口にした嘘と交ざり、段々と時間が経ち自分の本当の気持ちがわからなくなる。その結果、四六時中頭の中がモヤモヤしたり、自分の声でうるさくなっていた。これが原因で何か覚えようとしても、すぐに自分の声に掻き消され忘れてしまう。勉強をはじめ、運動など起きてから眠るまで永遠に続くため、何かに集中することも困難だった。このため、私はそもそもインプットすらまともに行うことができなかった。

最後に私が勉強が苦手とする理由を言うと、信じることができないからだ。言い換えれば、疑い深い。これは私の人間性が影響しているだろう。例えをだすと、数学の問題でx個買った、t時間進んだというように文字を使った問題がある。これは、xtの値がわかっていない時に見られるのだが、私はそもそもxtなんて個数や時間は聞いた事がないと、それ自体にツッコミをいれ、無いものはないと考えを放棄してしまう。話にならないのだ。他にも数学には無理数という数がある。π√2eなど。これについては、πなんかがいい例で、3.141592...というように無限に続く。これを、ただ単にπ33.14といったように表すことを認めて計算することがある。ここが私には、理解できない。無限に続く数を勝手に有限にすることや文字に置き換えて計算した場合、その答えは正しくないと考えてしまう。そもそもこの世に正円なんて見た事ない。よく見ると傷や凸凹がありる。それなのに何の疑問も持たずに使いこなす勉強家達には恐れ入る。彼等と私の違いは、やはり信じる力の差だといえる。この無理数だって、天才が考え出したモノで凡人には理解できないのだから、ただ何も考えずに鵜呑みにするのがいいに決まっている。それなのに鵜呑みにできない私の原因は、人を心から信用できないところにあると思う。人を疑うあまり、知識すらも疑ってしまう。そして今では自分自身すらも疑っている。もうどうしようもないのかもしれない。人が神を信じるのは、神ではなく信じるということのために信じているのではなかろうか。疑うおうと思えば、どこまでも疑える。まるで底なし沼のように。だから人は何かを信じ縋るのかもしれない。疑ってもキリがない。信じることで、例え騙されても疑うよりはマシだと思っているのかもしれない。