小学2年生の時に、兄に喧嘩で負けるのが嫌で習い事を始めた。兄に勝てることはなかったが、痛みに対する感覚は徐々に慣れることができた。兄が中学生に入ってからは部活のおかげか、喧嘩をする機会はぐんと減った。その時は小学4年生で、元々の目的とは違うものの兄との喧嘩が無くなったので習い事を辞めたいと思うようになった。だが、母親が自分より習い事に前傾姿勢で自分の気持ちを無視して、続けるように言ってきたり、大会にでるように半ば強引に催促された。このときは凄い葛藤があった。兄や妹ばかり気にかける母親が、今だけ自分を気にかけてくれている実感があり、自分の気持ちを押し56して大会臨もうと思えた。だけど、自分の気持ち嘘は付けなかった。大会のやる気はないし、練習も次第にどうでもよくなった。それを見て、母親が貴方がやりたいと言ったんだから、しっかりやれと注意してきた。私の言うことは聞かないが、母親自信が言うことは無理くり通そうとするのはウザかった。拒否したら、家を追い出されたり、罵倒されるんだから結局は言うことを聞くしかなった。鼻から選択肢はなかった。今回の習い事もそうだけど、並行して進研ゼミなんかも親の勧めでやっていた。まあただ親が金払うだけで、自分は何一つやらなかったし、やろうともしなかった。一度だけ勉強を親に聞いたことがあった。それは2年生のとき、掛け算がわからず毎日覚えられない組として、先生にできるまで指導された集まりにいた時である。担任が怒れば、子供は何でも言うことを聞くと思っている、母親の下位互換的な人で心底ウザかったので、上位互換である母親に聞いた訳である。返答は兄に教われ、であった。このあとどうなったかは一々言う必要は無い。蛇足として、兄は勉強はこれぽっちもできない。そのかわり、楽しそうにゲームはする。この経験から「勉強」は嫌いなった。そして、兄の影響もあり小学校6年間はゲーム唯一の没頭できる生きがいになった。ゲームに生活に支障がでるほど、時間を割いたが子供だからなのかストレスが原因なのかはわからない。ただゲームのおかげ、友達や居場所ができたのは感謝している。
小学校は辛い思いを沢山した気がするが、辛さが大きい記憶に上書きされるから残っているのは小学6年生のときだ。先生は宿題をやらなければ罰ゲームとして、雑巾で廊下を一往復される昭和脳だった。嫌なことをやらなければ、嫌なことをさせるという素晴らしい信念のもと教育が施された。別に勉強のストレスなんて、過去の辛い出来事に比べれば朝飯前だし、なにより俺にはゲームがあり、それ介した友達がいた。それでも耐えられなかったのは、運動会の応援団長である。ことの経緯は団長候補を探している担任が、団の生徒を呼び出して団長をやってくれないか?と相談した時である。自分は「やりたくない人という意味で「どっちでもいい」と言ったのだが、先生は「やってもいい」と解釈したらしい。次に話を聞かされた時は、団が集まる日と団長が俺に決まった事だった。先制しておいて次に言われたことは、「団長やってくれるんだよね?」だった。今思えば、正直に言えない自分が悪いんだけれども、それよりも人に良く思われたい、嫌われたくないと言う気持ちが、自分では制御できないほど大きかったのが一番の原因である。本音は言えず、受け入れたが地獄の日々が始まった。習い事と同時に2つもやりたくないことを強制され、真面目にやらないと怒られる。このことがトラウマ化した素因だと考える。今更、やっぱりやりたくないなんて言えない。親は勿論、先生にも言えない。友達には言いたかったが言えなかった。それよりも、気づいて欲しいと思う気持ちの方が強かった。親や先生は宛にならないから、なら同年代は助けてくれると思った。だけど所詮、怒られただけど泣く奴等だ、わかるはずもなかった。自分が登下校で兄と喧嘩して、泣いているところを慰めてくれた男の子と女の子はいた。その2人も気付いてくれはしなかったが、なぜか特別許すことができた。話がそれたが、学校に行きたくないと思いながら、嫌々学校に行き応援団の練習をした。運動会では優勝したが、そんなことよりも団長という呪縛から解放されることが何より嬉しかった。だけど一旦目立つ存在になると、下級生から団長だ!と言われることもあり、そのたび辛い記憶が蒸し返されるが、何も知らない悪気は無い無垢だから、許してやらねばという思いもあり、ただ傷口に塩を塗られるのを黙って耐えるしかなかった。そんなこんなで小学校は最初から最後まで最悪まま終わることになった。
今振り返れば、なるようにしかならないと気付いたおかげで、どう足掻こうが小学校すら幸せに有意義な時間を過ごすことは不可能であると諦めることができた。ただ一つ悔いがあるとすれば、小学校時代に限らずなのだけれでも、親の教育や親身になってくれる先生、兄弟仲や父親との関係のどれか一つでもプラスに働くモノであればもう少し、幸せを噛み締めることのできる人生だったのかもしれない。