朝5時に起きて、水を飲もうと1階に降りたとき、ふと外を散歩したいと思って、そのままふらふら外に出た。
眼鏡もしていないし、髪も結んですらいないし、おまけに寝巻きだ。靴下を履くことも面倒で、足元はサンダル。まさに着の身着のまま、といったかんじだった。
まだ日が昇っていなくて、玄関を開けて1歩踏み出した瞬間ひんやりした空気がわたしを覆った。
眼鏡をしていないせいで山や木々が滲んで見える。
思わず深呼吸。
つめたい空気が肺を満たす感じが久しぶりで、思わず笑ってしまった。
そのまま、ちょっとだけ散歩をした。
まだ朝だし、普段は選ばないちょうどいい距離の散歩コースを選んだ。
なんとも思っていなかったが、そういえばその道は幼少のころ毎日のように通っていた道だったことを、書いている今になって思い出した。
昔のわたしは、散歩というよりは仲のいい犬がいるおばあちゃん (血縁者ではない) の家に行くために道を使っていた。
散歩じたいが久しぶりだし、朝の散歩なんてもっともっと久しぶりだ。最近は自然にちゃんと触れていなかったからか、その道と傍の自然はいつも見かけるより壮大に見えた。
こういう大自然のなかにいると、しぜんと呼吸が深くなる。
朝の森の豊かな空気をめいっぱい感じようと思って、わたしはものすごい深呼吸をしながら歩いた。
こういうときだけ肺の容量が1.5倍になっているように感じる。
体もいい空気はいっぱい入れたくなるのかしら。それで無意識に内臓を大きくしてたりしない?
普段から美味しい空気だけれど、やっぱり朝が格別だなあと思う。
甘い香り、緑のにおい、柔らかさ、冷たさ、自然のいいとこギュッと詰め込みました!って感じだ。
朝の森の空気は濃縮ジュースみたいなものだと思っている。
わたしは、歩きながら、莫大な自然に気圧されていた。
森の目覚めのパワーみたいな、目に見えないものを、わたしは全身で感じていた。
眼鏡をかけていないせいか、滲んでいるはずの景色がいつもより説得力のある景色に見えた。そうか、光の屈折を通さないほんとうの姿を見ているのか、と気づいて、それがすとんと腑に落ちた。
視覚で感じる、っていうことの理想形は、眼鏡のフィルターをかけないことなのだろうな。
昇ってきた朝日に照らされる少し遠くの山を見て、ここにあるのは太古だ、と思った。
人の手の加えられていない山々は壮大で、でも優しくそこにあった。
甘さと冷たさが一緒くたになって、ずっしりとそこに鎮座している。
頼もしいなあ、とふと思った。これが地面か、大地か、と。
力強かった。大地に立っているという事実もだし、大地がそこにあるという事実もだ。
わたしたちを無条件で支えてくれるパワーがそこにあった。
木や風や水とはまた違った感じの、ものすごいパワーだった。
わたしは自然の中にいると、ものすごく無邪気になるという特質を持っている。
子どもみたいになるのだ。目に付いたもの全てに好奇心が湧いて、ふらふらと近寄る。全く恐れを知らない。
たぶん、わたしが一人で森のなかを歩いているときにクマと遭遇しても、あんまり怖がらないんじゃないかなぁと思っている。むしろこっちから近づいてしまいそうだ。
現に散歩中、ちょっと遠くに茶色っぽい影が動いているのが見えて、わくわくして近づいてしまった。
その場所の近くに着いたときには、その茶色くんは草の影に隠れてしまっていて、正体は分からなかった。
眼鏡してないから見間違えたのか?と思ったけれど、近くのアスファルトに足跡がついていたからいたのは間違いない。大きさ的にクマだった。
それがちゃんと分かっても全然怖がらなかったのに驚きである。
わたしこんなに恐れ知らずだったのか、と思った。人間社会じゃ恐れてばっかりいるのにな。子どもの頃は確かに恐れ知らずで、何でもかんでも口にするしやってみるしで落ち着きのない変な子だったけど。
たぶん、こういうのが魂の本質ってやつなんだろう、と思う。
純粋なわたしが剥き出しになっているようなかんじがした。
本能とも違う、奥の奥のわたしが、日頃の生活で着いた幾重もの皮をめくったせいで、姿を現した、といったかんじ。
自然が魂を剥き出しにさせる。
これがわたしなんだろうなぁ、と漠然と思った。
自然は人間を昇華させてしまうのだろう。
良くも悪くも、純粋に昇華させる。怖いことでもあるし、すごいことでもあるなぁと思う。
そこで人間が完全に昇華してしまったら、人間とは違うものになるんだろう。
体は人間だけど心は純真すぎて人間じゃない、みたいな。心だけ自然に還ったみたいな、そういう状態になってしまうんだろうな、と思う。
現代の人間は自然に触れる機会が少ないから、すごく昇華しやすくて、何かが噛み合ってしまったら、すぐに昇華してしまうのかも。
自然に慣れていないから、そこで魂とか本質を剥き出しにされて、そちらを制御出来ずにどんどん踏み込んでいって、しまいにはとっても純粋無垢な生き物になる。
そう思うと、自然のパワーっていうのは今の私たちには強すぎるし、そのパワーと同居していた昔の人は凄すぎる。
狩猟民族とか、自然の研ぎ澄まされた強さに四六時中あてられているのに、よく凛と立っていられたものだ。
いつでも極限状態、純粋無垢なりかけで踏ん張ってる、みたいな状態? いやそれとも、わたしたちには無いレベルで自然を理解していて、畏れはなかったのだろうか。
どちらにせよ、純粋無垢な状態というのは、メリットデメリットどちらもあるし、その極限状態にあるということは、極めてピュアで、自分の魂に触れていられるってことでもある。
ネイティブ・アメリカンたちの言葉が、わたしたちの魂を震わせるような響きを持っているのは、そういうことなのかもしれないな、と思った。
私たちの最初の先生は、
私たちの心である。