こんにちは。暖かいと思っていたら、少し冷え込みましたね。こんな時は注意が必要ですね。ついつい体を冷やしたりしますから。さて、今回は「怒り」というものについてです。人間誰しも、ある感情です。これはまあ、大まかに言うとアカン感情とされることが多いです。でもまあ、これについては微細に見ていかないと分かりません。


例えば生活改善のエネルギー、今のままじゃいかん!と、一念発起しますね。それ自体はとても良いことですが、それのもとを辿れば、今を嫌だと思う気持ち。この、嫌だ!不快だ!とする判別は、そもそものところ、怒りに分類されるものです。


ですから、怒りというものはただ無くせばいいというものでもありません。そうではなくて、怒りを変容させるのです。それは煮込み料理のようなものです。ことこと煮込んで、美味しくなるよう、調味料も加えて。すると怒りも美味しくなります。


そして、ここも大切な点ですが、怒りのエネルギーを変容させるときには、他方で赦し・受容のエネルギーを必要とします。変えよう、変えたいと思うときには、攻撃し、破壊しようとするエネルギーが発揮されますから。それを意識して、自他の弱さや欠点を認め、受け入れ、赦すことが必要となるのです。




こんにちは。寒さもゆるんで、お天気もいい。すっかりお休み気分ですが、引き続き、仏教の話を。仏教を知る、となると今は大層便利な時代になりました。本もある、講演会とかもある、とっかかりは無数にありますね。そこで、ありがたい教えを知り、ああ、ありがたい、私は真理を学んだ、と、こうなります。すると、この、真理を伝えたくなりますね、私もそうですが……で、ここまではいいんです。でも、それが過剰になると「なんでこんなことも知らないんだ!私が教えてやる!」と、こう来ますね。


そういう人は、仏教の「智慧」の部分を、人伝えに知ったのです。確かに相手の人は仏法を知らないかもしれません。でも、だからといってあなたより「劣った人」でもありません。こうした、頭でっかち、私も時折反省しますが……智慧があっても、慈悲が足りないのです。慈悲とは相手を慈しむ心、相手のよきことを喜び、相手の悲しみを自分自身の悲しみとして受け止める心です。そして、この、「智慧」と「慈悲」の二つ、これは車の両輪のようなものです。この両方があって、車は前に進むことも、時には退くことも可能になります。


これは仏陀の教えにもありますが、智慧については、それは事細かに定めてあります。まあ、完璧な地図があるということで、いわば、それは、困難はありますが道筋ははっきりしているのです。だから、大方の書籍もそれをメインとする。注釈書・教養書もそこに集中して書かれる。で、慈悲の道は未だに、完璧な地図というものはありません。だから、そこが残されている。多くの人が片輪のみ立派な車輪をもって、もう片輪は小さくて、粗末なものしか持っていません。


だからという訳ではありませんが、日々の実践としては、慈しみの行というか、そこがとても大切になります。慈しみとはなんなのか、あらためて考えてみるのもよいでしょう。そして、その実践においては、戒というものが大きな鍵となります。特に口業についての四つの戒めを護るだけでも、慈悲の心は育っていきます。慌てずにいきましょう。


 

こんにちは。今日は有休をいただいたので、のんびりと書かせていただきます。あ、あけましておめでとうですね。今更って感じですが、今年もよろしくお願いします。さてさて、仏教の話というと、どこからすればいいのかと思いますが、これが「これだけやっとったらええ」ってもんじゃないんですね。だからと言ってチャート式のようなものでもない。実践、といっても、瞑想とか、特に時間を設けてやるもの、以外に、日々を意識的に過ごす、ということが、もちろんベースとなります。心理学と関係したところでいうと、内観、というか、観ていくこと、この力が養われると良いように思います。人間、何に苦しむのかというと、仏教的に言えば、色々とありますが、一つには「妄想」これに苦しむと。

 

 

そして、その妄想が組み立てられるもととなるのは「感覚器官」の存在です。六根といいますね「眼耳鼻舌身意」そしてそれらが触れるのが六境「色声香味触法」という対象になります。即ち、感覚器官が対象に触れ、感覚が生じ、そこから感受、知覚、思考が生まれ、それが妄想となるのです。何を観ていくのかというと、妄想となってからでは遅くて、妄想が生まれるまでのプロセスを観ていく。これが重要なんだと仏教では説きます。因果の流れ、原因を観ていくということですね。

 

 

だから、パッと捉える、対人関係なら、あの人はこう見える、とかね、こう感じる、とか。それは大抵はこう、客観的に見ることが出来ていないんです。「こう」っていうところに、主観が入ってしまっています。そうすると、そこから徐々に、妄想となり、それが己を苦しめます。だから、観ていくことが必要になります。感覚器官の働きにも、気づいていること、それを観ていること。で、その営みって、何も瞑想している時に限りませんね。但し、ずっと、観ているというと、それもまた、苦しみの原因となります。遊びが無いと、しんどくなりますから。

 

 

この観ていくというのが、マインドフルネス、更に仏教的に遡ると、ヴィパッサナー瞑想といいますね。まあ、そこから先はともに鍛えて参りましょう。私も初学者です。