さて、久しぶりに来てみたら三月になってしまっていました。こんにちは。前回は心の基本事項について書いてみて、なるほどなあと自分なりに頷いたり。今回は、こー、メンタルヘルスの究極というか、そこ!ということを書こうと思いますよ。ええ、実際はこう、シンプルなものです。それは、たましい(SOUL)というものについての考察から来ます。たましい、それは曖昧なものですね。心とも言い得ず、体とも言い得ない。河合隼雄先生は、決めつけないというのがたましいなんや、と仰った。そして、私の敬愛する、トマス・ムーアという人が居ますが、その方はたましいというのは、一つの姿勢というか、実体じゃないんや~と言いますね。なるほど。

 

 

メンタルヘルスというのは、ひとえにこー、たましいのケアなんだということも言えると思います。なんか、問題があって、そいつを解決する、それがメンタルヘルスなんだと、そうじゃない。問題ってのは、寧ろたましいのケアの入口になるんじゃなかろうか、或いは心の病というのもそうですね。その人のたましいが、より良く生きる為のヒントを与えてくれている。で、たましいってのは、あんまり「意思」とか、そーいうものの言うことは聞きません。もー、何十年も働いて来た人がふと、たましいに触れたことで、その仕事がたましいの求めるものではなかったということに気づかされる。そうしたこともあります。たましいの伴侶というのもありますね、ともかく、そう一筋縄ではいかないのが、たましいのケアということで、こいつがメンタルヘルスの根幹ではなかろうかなと、私は思う訳です。

 

 

で、メンタルヘルスってなんじゃい、その究極ってなんじゃいっていう話ですが、私は「自分自身を(まるごと)受け入れること」だと思います。(まるごと)って、カッコに入れたのは、まー、そこ要らないんじゃね?とも思ったからですが、同時に(まるごと)ってのは、ぜーったいに、ムリだからですね。だから、究極なのです。で、洋の東西問わず、そこが問題なんだと。自分を少しずつでも、受け入れることが出来るようになってくると、生は精彩を帯びるようになっていく。そのためには、自分のまるごと(たましい)をケアし続ける必要があるんですなあ。で、ヒントのようにいうと、たましいというのは、過去に執着するのもたましいだと、トマス・ムーアは語っています。それも、たましいの特徴なんや、って。私は怒りや苛立ち、妬みってのも、たましいの範疇だと思いますね。

 

 

で、そいつも自分だよな~と受け入れる。じわじわ、でいいんです。そんな、すっぱりと受け入れられるようなのは、ほんとに受け入れてはいないんですよ。もっと、痛みや苦しみもある。直面したくないところもありますから。で、所謂セラピーってのは、そこを、セラピストという人が「居る」ことによって、患者が自分自身を見つめ直し、受け入れることが出来る手助けをする。そーじゃないかなーって思うんですよね。で、そこで私が注目する手法として、やはりフェルトセンスっていうかな、心の触感のようなものは、感じている必要があると思う。なんとなーく、今日は調子がいい、とか、なんとなーく、調子悪いなとか、そういうところですね。この、なんとなーく、の触感を味わうことが、メンタルヘルスの鍵だとは、ジェンドリンという人も、鋭いなあと思うんです。