レポート:西洋史(ガリア戦記) | CDA

レポート:西洋史(ガリア戦記)

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4回目でやっと通った西洋史。




ガリア遠征の原因、経過、結果、歴史的意義について以下に論ずる。



1.原因、経過、結果

ガリア遠征のキッカケとしては、「ヘルウェティイ族」がガリア統一をにらんで新しい土地を求めて移動した際、「ハエドゥイ族」の領土を荒らしたこと、隣国に危険な国を置いてはローマが安泰ではなくなること、そしてローマはBC107年に「ヘルウェティイ族」に撃破され、カッシウス、カエサルの親族ピソが命を奪われたことを理由に戦争を始めた。カエサルは59年(41才)に初めてコンスルとなり、その翌年から51年までの8年間ガリア戦争となった。


58年、「ヘルウェティイ族」、他部族からの討伐依頼によるアリオウィストゥス「スエビ族」との戦い。57年、ローマに対抗して部族同士同盟を組んだことからのベルガエ人の「ネルウィイ族」、「アトゥアトゥキ族」との戦い。56年、「ルカ会談」では60年に結んだ私的な政治協定のゆるみを改めて締め直す意味で、ポンペイウスとクラッススが三国同盟の延長をするが54年のユリア、53年のクラッススの死により崩れることになる。55年、スエビ族に追い出され住居を求めてやってきたゲルマン人「テンクテリ族」、「ウシペテス族」との戦い。54年、ガリア軍の援軍にブリタニア人がいることから「トレウェリ族」との戦い、「エブロネス族」が反旗をおこす。53年、「エブロネス族」との戦いでは歴史から名前を消すほど徹底的な復讐であった。52年、ガリア遠征最大の山場ウェルキンゲトリクス率いる「アルウェルニ族」の戦い。これはカエサルの侵略を防ぐガリア人民族解放戦争であった。実は民族統一は過去にカエサルがまいた種であり、自分でその芽を摘むことになったのである。51年、ウクセロドゥヌムの要塞での戦いが最後となりガリア征服事業が完成となる。7年目までカエサルが書き、8年目はヒルティウスが書いた記録とされている。


2.ガリア戦記の特徴と近年の研究
この本は客観的な視点として三人称で書かれていることが大きな特徴である。その他、各部族との戦争のキッカケに都合よく大義名分をかざしたり、「彼らはみな泣きながらカエサルの足元に平伏した」など随所に自分を大きく見せるように書かれている。ガルバの12軍団のアルプス山岳戦は3年目の初めに記載されているが、実は前年2年目の秋の出来事とされる。またこれが落ち着くとガリアは平和になったと書いてあるが、3年目におこったウェネティ族の反乱によりまだ統一されていないことを知る。このことから、初めから8年もかかることを想定しておらず、これを機にルカ会談でのガリア知事任期延長があったのではないかと考えることが出来る。


ガリア戦記はいつ書かれたか。
ヒルティウスの「どんなに無造作に、どんなに早く書き上げたかを知っている」という言葉から、ウェルキンゲトリクスを倒したすぐ後の3ヶ月間という説が有力視されている。

なぜガリア戦記を世に出したか。
この時代の背景として、一人支配や共和政を崩す恐れのある人は全て保守派から標的となった。ローマの繁栄は属州からの税により潤っていることや、共和政ではもはやまとめきれない規模となっていたが、ローマ政治家はローマしか見ていない、ここにカエサルの世界帝国理念が芽生えてきた。ヒルティウスいわく、「世の歴史家が知識を欠いてはならぬと考えたためである。」としているが、実際はガリア遠征後、元老院保守派の弾劾に対する自己弁護とコンスル選挙を控えての民衆の投票獲得の手段だったと考えられている。

しかし、なぜあそこまでガリアの各部族の細かい状況までわかるのか。相手の上層部でなければ知りえない情報を相手目線で臨場感溢れるタッチで書いている。戦のたびに人質をとり事情徴収していたのか、日々の偵察に力を入れていたのか。「後世の歴史家が執筆せずとも利用できるほどにすばらしい出来」とされるようにヒルティウスもカエサルの文才を認めている。部下の見ていない場所での隠蔽や、現在の史料の多くが10世紀前後に書かれ、その間歴史家によって改ざんされたとも考えられるが、ガリア戦記の読者には彼の部下もいたことから、大きな嘘は書けないはずである。


なぜカエサルはローマにいなかったのか。
クィンティリアヌスの「弁論術教程」によると「もしカエサルが広場の仕事だけに没頭していたら、ローマ人で彼以外にキケロに匹敵する者はいなかったであろう」と言われることや、数々の逸話があるように弁才はトップクラスだったと言われている。しかし、カエサルは当初は借金の返済があったことと、その後ローマ内にキケロ、小カトーがいて思い通りにならないがガリアではトップになれるという計算があったのではないか、しかし最終的にローマで1番になることを目指したときに弁才と文才があっても戦争を絡めなければならないと悟ったからのではないかと考える。このことから、現代の歴史家シュトラスブルガーを筆頭にカエサルは大政治家ではないという意見が多いということも納得できる。


3.ガリア戦争の意義
ガリア戦争はカエサルをイギリスの英雄にした一つのキッカケにすぎない。カエサルをポジティブにとらえれば、帝政の定礎者、後世の多くの芸術家が注目をしていることだが、
ネガティブにとらえれば共和政の破壊者でもある。


しかし、そもそもガリア戦争がなければ、カエサルにまつわる資料、当時のヨーロッパの資料は後世まで受け継がれなかっただろうし、コンスルを7回当選しているマリウス、海軍を蹴散らしたポンペイウス、弁才キケロ、独裁者のスラなどと大差ない人物だったと考えられる。実際には、ファルサロスの戦いの勝利こそが都市国家に対して一人支配の勝利だと考えられているように、ガリア戦争後にすぐ死んでいたら、その後の一人支配はなかったかもしれない。確かに一人支配の根底にあるものはマリウス傭兵政策によるクリエンテラ創出であり、実際に帝政となったのはアウグストゥスであるが、その真ん中に位置づけられるガリア戦争により、都市国家をなくすキッカケとし一人支配の方向性を植えつけたことは誰が見ても明らかだろう。目に見える形でカエサルが現代に残したものとして、ガリア戦記という書物、ユリウス暦、現在のスペインやフランスでの建造物、文化などがあげられる。


<参考文献>
カエサル 長谷川博隆 講談社
ガリア戦記 カエサル 講談社
図説 永遠の都 カエサルのローマ 佐藤幸三 河出書房新社

文字数 2,496字