屋久島について:レポート
屋久島について説明する。
1.概要
屋久島の起源は、1000年以上前にフィリピン海プレートの沈み込みにより、花崗岩が隆起したもので、2万年ほど前のウルム氷期には海面が120メートルも低く、屋久島、種子島、大隈半島や九州本土は陸続きだったとされている。島内では6300年前の火砕流の証拠であるアカホヤ(赤色の細粒火山灰層)をよく目にすることができる。
屋久島は、1924年に原生林が国の天然記念物となり、1964年に島が霧島国立公園に編入、霧島屋久国立公園となる。そして1991年7月17日の環境長官視察がキッカケとなり1993年12月9日に霧島国立公園と一部で島面積の1/5が世界遺産に登録された。また、世界で最も雨の多い地域で「1ヶ月に35日雨が降る」と言われる。2002年の屋久島森林保全センターのデータによると、東京の年間降水量が1400ミリに対し黒味岳山頂付近では6月の降水量が1424ミリとなっており、その多さがよくわかる。
屋久島といえば「杉」が有名である。1966年に岩川貞次が発見した樹齢7200年(環境庁発表)とされる「縄文杉」が最も有名であるが、内部が空洞化しているため正確な樹齢がわからない。しかし6300年前の鬼界カルデラの火砕流で生き残れる可能性が低いことや、炭素14法から近年は樹齢2000年程度で合体木という説が有力となっている。また、「屋久杉」樹齢700~800年以上のものを差し、形状や年輪の緻密さ(樹枝がなく、樹皮が白っぽく、荒く、コブがあり、みずみずしさが無くなったもの)で分けられる。それ以下の樹齢の杉は「小杉」といわれる。
島内に自然に生長した杉は「岳杉」と呼ばれ、人の手によって植えられたものが「地杉」と呼ばれる。一般に標高600メートルを基準に「岳杉」が見られるようになる。
そして、里山と言われ海岸平野部から海抜800~1300メートルの場所を「前岳」と呼び、前岳に囲まれた山岳部を「奥岳」と呼ばれた。奥岳は江戸時代まで神聖な空間とされており人の立ち入りは禁止であったが、猟師や岳参りの人のみ例外として許された。また意外なことに1月末から2月にかけて山間部に雪が降る。標高600メートルはスノーラインと呼ばれており、雪が降るギリギリの境界線である。さらに興味深い話ではあるが、屋久島では花粉症がない。これには花粉の舞い落ちる舗装面が少ないことが要因である。その他ポンカンやタンカンの栽培がさかんであり、アカウミガメの上陸頭数も1000頭近くおり、北半球では一番多く見られる。現在では、島の一番の観光名所「縄文杉」を見るために、片道約4時間かけて山道を登る見学者が大型連休では日に300~600人もいるという。
2.問題点
なぜ「屋久杉」が多く残っていたのか。それは決して巨木への信仰でなく、江戸時代に良質な木を求めた結果がたまたま300~500年の小杉だったからである。
「屋久杉」への斧入れは検地が徹底された江戸時代初期から始まった。
1570年安房生まれの泊如竹が修行を終え屋久島に帰ってきたことがキッカケであるが、貧困や米が収穫できないことからの打開策であった。杉の管理は江戸時代には各集落、明治時代の地租改正では官有林、大正時代には国有林となり営林署が管轄する。1923年には安房から子杉谷間にトロッコ道が建設、1953年以降に営林署がチェーンソーを導入、前線基地として小杉谷集落が1970年まで繁栄した。日本のODAの先駆者久保田豊により、豊富にある水を利用して水力発電、ダム、1960年に化学工場も建設され急速に近代化となった。
しかし、これらが原因で少しずつ屋久島の生態系に異常が見られるようになった。
1953年まで杉は斧と鋸での伐採だった。足場を組む関係で地上数メートルのところから伐採しており、それまでは土石流の流出を防ぎ、土埋木として次世代の生長する苗木として役割を担っていたが、1958年国有林野生産の増強計画に始まり、1963年には屋久島森林開発株式会社が設立されたことが原因で、パルプを生産する為に広葉樹(雑木)の大面積皆伐が行われた。このとき前岳や小杉谷のほとんどが皆伐されたことで、「ヤクザル」や「ヤクシカ」が民家の畑を荒らすようになった。「ヤクザル」は今でも毎年200頭近くが処分されている。また、土石流や化学工場から出た煤塵も周囲の住民に被害を及ぼしている。
他には「屋久杉」の観光客が増えるに連れ、道端のむき出しとなった根が踏みつけられるため木が傷み、ひどいところでは陥没にまでいたっている。1996年に「縄文杉」の根を保護する為に見学ステージが設けられた。西部林道では、ビール缶、コーヒー缶、釣り道具、粗大ゴミが無残に捨てられており、これらが島の水質や環境を悪化させている。
「ヤクタネゴヨウ」は木に一つ一つ番号付きのメタル札がついており、レッドデータとして絶滅危惧とされている。
3.まとめ
このような被害を受けて、1971年環境庁により構成自然環境保全地域に指定、1973年に屋久島原生林の即時全面伐採禁止、1983年国有林見直しおよび保護区拡大、1996年にはゼロ・エミッション計画のモデル地区となり国として動き出している。世界遺産の自然部門となっているものの多くは人が住んでいないところであるが、屋久島は住民がいるため、共存と環境保全が課題である。屋久島を形づくっている自然構成員はアジア周辺地域(中国からの北西季節風や黒潮、陸続きだったころからの生態系)を源としていることから、世界が蜜に関係した遺産である。世界共通の遺産ということを念頭に入れながら「アラビアオリックスの保護区」のように世界遺産の登録を抹消されないよう、国全体で取り組んでいかなければならない。
参考文献
屋久島、もっと知りたい(自然編) 中田隆昭 南方新社
文字数 2,234字