JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。
今週は、作家・沢木耕太郎のフォトエッセイ『旅の窓』を、一部抜粋してお届けしています。
今夜は、その第4夜。
その時々の自分の心を映し出すように、訪れた異国の町の風景を綴ってきた、沢木耕太郎。
今夜は、ドイツ・フランクフルト、そしてギリシャのケルキラ島での記憶に、思いを馳せる。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「終着駅」
ヨーロッパに行って、初めて鉄道の中央駅を見たのは、ローマだった。
そこに至るまでの乗り物はバスだったが、観光案内所を求めて、駅の構内に入ったのだ。
そして、そのプラットホームが、まさに『終着駅』という映画の題名通り、片方が行き止まりになっているのを見て、なるほどと思ったものだった。
それ以後、様々な国で終着駅であると同時に、始発駅でもあるという、蒲鉾型の屋根を持った鉄道駅を見る事になるが、今でもそうした駅のプラットホームに立つと、日本の鉄道駅ではあまり感じる事の無い、「旅愁」といった言葉がぴったりするような感情を、覚える。
ここドイツのフランクフルトの中央駅も、屋根は蒲鉾型で、プラットホームの片方が行き止まりになっている。
[フランクフルト中央駅]
そこにぼんやり立っていると、自分がこれからどこかに出発するのか、それともどこからか到着したばかりなのか、よく分からなくなってくる。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「炎に祈る」
炎というのは、どうしてこのように、人の心を動かすのだろう?
暖炉の炎、焚き火の炎、そして蝋燭の炎。
とりわけ、蝋燭の炎には、動きの激しい暖炉や焚き火の炎とは異なる、整った静謐さ、とでも言うべきものが感じられる。
そこに、蝋燭が祈りの場で重用される理由が、あるのだろう。
それは、ギリシャのケルキラ島にある、小さな教会だった。
[ケルキラ島]
夜、通りすがりに覗くと、祖母に連れられてきたらしい少女が、祭壇の前で蝋燭に火をつけていた。
その真剣な眼差しを見ているうちに、火をつけるという行為そのものが、一つの祈りになっている事に、気がついた。
たとえ、それがどのような対象であれ、またそこがどのような場所であれ、祈るという行為の持っている美しさには、世界共通のものがあるように思える。
しかし、今、日本の子供たちは、この少女のような祈りの場を、どこに持っているのだろうか?
【画像出典】