JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。
今週は、写真家・石川直樹の紀行エッセイ『地上に星座をつくる』を、番組用に編集してお届けしています。
今夜は、「エベレストの犬」という章の、第3夜。
日々、旅を続ける写真家、石川直樹。
エベレストの隣の山、ローツェ登頂の途中で、標高5300メートルのベースキャンプのテントで遭遇したのは、一匹の犬だった。
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僕は犬好きなのだが、エベレスト街道をトレッカーと一緒に、1週間かけて歩いてきた野良犬と添い寝できるほど、器量は大きくない。
きっとこの犬、トレッカーが与える餌を当てにして、ここまで来てしまったのだろう。
彼はどうやら、ベースキャンプのあちこちを渡り歩いており、他のメンバーが留守の間にも、テントに出入りしながら、時々居眠りしていたらしい。
また、勝手にロシナンテと名付けて、可愛がっていた別の隊もあった。
去年は氷河に架けられたハシゴを渡ってまで、登山者についてきた犬がいたが、僕のテントで寝ていたこの犬も、相当な犬である。
眠りを妨げられたからなのか、それとも疲れていたからなのか、よく分からないが、犬は元気が無かった。
動物も、高山病になるのだろうか?
薄い酸素と乾いた寒さによって、人間と同じように、弱っている風にも見える。
テントから立ち退きを迫られ、恨めしそうに後ろを振り向きながら、トボトボ歩いていく彼もまた、環境に適応した動物である。
なにしろここは、標高5300メートルなのだ。
小さな鳥の他に、生き物はいない。
荷運びのヤクでさえも、ベースキャンプに荷物を降ろすと、帰ってしまう。
[ヤク]
犬をテントから追い出した後、可哀想な事をしたかな、と思った。
しかし、僕が考える以上に、あの犬はしたたかだろう。
彼が去った後のテント内には、大量の犬の毛と獣臭だけが、残された。
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今年のエベレストとローツェは、極めて乾燥していて、雪が少ない。
そのため、落石が多発しており、非常に危険な状態になっている。
こうした表情の山に、人間が抵抗しても、無駄である。
肉体を山に順応させれば、体が動く。
精神を順応させれば、五感が開く。
きちんと、その環境に適応した者は、限界と可能性の両方を冷静に判断し、動ける。
引き時も、分かるのだ。
それは、野良犬も同じだろう。
夜、テントの外に出ると、満天の星が輝いていた。
[星空]
世界は美しい、と心底思える場所は、そうそうある訳ではない。
この寒空の下、どこかであの犬も、星の光を見ていればいいな、と思った。
【画像出典】