JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。
今週は、作家・伊集院静の紀行エッセイ『旅だから出逢えた言葉』を、一部編集してお届けしています。
今夜は、その第3夜。
モルトウイスキーの取材で、スコットランドのアイラ島を訪れた伊集院静が出会ったのは、宿泊所の心優しい老女だった。
宿に戻った作家が、一休みすると伝えると、彼女は
「ゆっくりしてください」
と、1杯のモルトウイスキーを、持ってきてくれた。
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一休みした後、夕刻、みんなで美味しい食事を取った。
生牡蠣にウイスキーを垂らしていただくと、口の中に素晴らしい味覚が広がった。
翌朝、朝食の時、宿の主人に、昨日の午後、老女からウイスキーをご馳走になった礼を告げた。
「そうですか。
母は、英語が得意ではないので、話は少し通じなかったかもしれません。
でも、優しい女性ですから」
そう話す主人に、私は尋ねた。
「英語が不得意とは、普段は他の言葉を話していらっしゃるんですか?」
「はい。
彼女は普段、ゲイル語を話します。
それが、母国語ですから」
「あっ、そうでしたね」
スコットランドには、古くから使われている、ゲイル語があるのを思い出した。
主人は近年、失われようとしていたゲイル語を復活させるために、島の子供たちにも、学校で習わせ始めたと、話してくれた。
その日の取材で働いてくれた運転手も、ゲイル語を守るために、島では様々な事を始めていると、教えてくれた。
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午後、早くに取材が終わり、私はまた一人で宿に戻り、原稿を書いていた。
部屋のドアがノックされ、開くと、彼女がハーフ&ハーフのウイスキーを手に、立っていた。
私は礼を言い、母国語を守る事は素晴らしい事で、人々の使命だと、話した。
すると、彼女の目は輝き、ゲイル語の美しさについてたどたどしい英語で説明し、最後に、
「この言葉は、私たちの体の一部ですから」
と、毅然として言った。
その時の彼女の表情、立ち姿の美しさは、感動するものだった。
人間は、何かを失って初めて、その大切さ、その慈愛に気付く。
家族、肉親、友との死別が、そうである。
母国語にはそれと似た、普段は見えない言語の愛のようなものが、内包されている。
その国の言語は、その国にしかない風土、暮らす人の精神が、様々な言葉・音韻を生み、長い時間をかけて熟成し、民が守り続けたものである。
言葉には、その国の人々の祈り、希望、忍耐といった、生きてきた証が宿っている。
私たちは、自分たちの言葉を、大切にしているだろうか?
日本語が失せるという事は、日本人がこの世からいなくなる事である。
毎夜、モルトウイスキーを飲んでいると、時折アイラの美しい風景を思い出す。
[アイラ島]
【画像出典】