JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。
今週は、作家・浅倉秋成による書き下ろしの物語「パリ、オードブルからデセールまで」を、5日間に渡ってお送りしています。
今夜は、その第3夜。
仕事仲間と共に、かつての恋人がシェフを務める店を訪れた男。
パリでも評判というその店で、4人全員が同じコースを頼んだにもかかわらず、彼だけに運ばれてくる別メニュー。
1品目の、マグロと鯛のタルタル。
2品目の、たけのことセロリのポタージュ、に続いて運ばれてきたのは・・・?
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「クロムツのポワレのサンド、ロックフォールソース添えです」
3品目も、僕だけの特別メニューであった。
見た瞬間に僕は、心を強制的に、大学時代の安アパートに戻された。
こんがりと焼き目の付いた、肉厚の白身魚が、茶色い丸型のサブレのようなものに、挟まれている。
かけられているのは、真っ白いロックフォールソース。
ブルーチーズを主な材料とするソースで、皿に顔を近づけなくとも、独特の香りが、音も無く立ち昇ってくる。
[ロックフォールソース]
僕以外の目から見れば、それはなんて事のない、フレンチの一皿に見えただろう。
でも、僕には分かった。
これが、何をモチーフにした料理であるのか。
狭い部屋で、肩をぶつけながら生活していた僕らに、金などあるはずがなかった。
調理師学校の生徒と言っても、食材を無尽蔵に使える訳ではない。
日がな一日、六畳間でテレビを見ていた僕と違って、彼女は毎日のように飲食店でのアルバイトに励んでいた。
生活を切り詰めて切り詰めて、やがてどうにか数万円を捻出すると、都内にある名店へと向かう。
本物の味を舌に刻み、また腕を磨く。
彼女の技術に甘え、毎食手料理を用意させる訳にはいかない。
金の無い僕らは、必然的にかなりの頻度で、ファストフードに頼る事になった。
大学生の腹は、ハンバーガー1つでは、なかなか満たされない。
2つほど買おうと思うと、僕はいつも決まって、同じメニューを買ってしまう。
1つは、通常のハンバーガー。
ならば、もう一つは・・・?
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これはあの頃、僕が毎日のように食べていた、フィッシュバーガーだ。
気付いてしまえば、添えられているスティック状に整えられたにんじんのグラッセは、もはやサイドのポテトにしか見えない。
覚えているか、と料理を介して彼女から尋ねられている気分であった。
覚えているよ、と僕は薄い笑みを浮かべた。
ナイフに力を入れると、サブレはまるでバンズのように、しっとりと刃を受け入れた。
咀嚼した刹那、僕はこれが思い出をモチーフにした、単なる鑑賞用のモニュメントではない事を、思い知る。
バンズに似せたサブレには、胡椒と小間切れになったベーコン、そしておそらくはいくらかのバジルが練り込まれており、濃く、それでいて上品な塩味が感じられる。
クロムツの皮は香ばしく、クリスピー。
白身はどこまでもまろやかで、粘度の低い透き通った脂が滑らかに、口の中を旨味と共に滑り落ちていく。
ソースはあくまでも香り付けと、コクを出すためのアクセント。
噛むほどに、3つの味が渾然一体となり、サンドになっている事の意味を、僕に教えてくれる。
味も値段も場所も、そして何よりこの僕自身も、全てがあの頃とは異なっている。
それでもこれは、れっきとした、思い出のフィッシュバーガーであった。
僕はもう、厨房の方を見つめようとはしない。
彼女が次に繰り出すメインのヴィアンドを、あるいは彼女が僕に何を語ろうとしているのかを、この席に座ってじっと待つ事に決める。
【画像出典】