JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。
今週は、作家・村上春樹の紀行エッセイ『遠い太鼓』の中から、「まえがき」と「ローマについて書かれた章」を、番組用に編集してお届けしています。
今夜はその第3夜。
村上春樹の紀行エッセイ『遠い太鼓』は、後にベストセラーとなる『ノルウェイの森』が書かれた時期の、貴重な旅の記録だ。
作家は、ローマで疲弊した心を癒し、新しい小説に向かう事ができるのか?
ローマの風景の中で、作家の悩みは続いた。
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キッとした香りの、トスカナのワイン。
ホテルの近所の酒屋で買ってきた、あまり高くないワインだが、悪くない。
ラベルには、鳥の絵が描いてある。
見た事の無い鳥だ。
日本の雉に似ているが、色がもっと派手だ。
[ワイン]
僕は、半分ほどに減った、そのワインの瓶を手に取って、何の意味も目的も無しに、瓶の形やらラベルの図柄やらを、長い間眺める。
瓶の口を手で握り、底を腹の上に乗せて、特に何の感情を抱く事も無く、それをじっと見つめる。
ぐったり疲れると、僕はそんな風に、何かを眺め続ける事がある。
何だっていい。
とにかく、そこにある物を、じっと見るのだ。
僕は、今ワインの瓶を、じっと見つめている。
随分長い間、見つめている。
でも、まだ何の結論にも、達しない。
感情?
うん、感情なら、少しある。
僕は、すごく歳を取ってしまったような気がする。
全てが緩慢で、遠くにあるように感じられる。
そして、ジョルジョとカルロが、相変わらず頭の中を飛び回っている。
ブンブン、ブンブン、と。
僕の疲弊こそが、彼らの養分なのだ。
ブン、ブン、ブン、ブン。
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昨日は、女房の誕生日だった。
彼女の誕生日に、我々は日本を出てきたのだ。
時差の関係で、彼女はとても長い誕生日を持つ事が、できた。
とてもとても長い誕生日。
僕が初めて彼女に会ったのは、僕らが二人ともまだ18の時だった。
あれから20年。
でも、僕が歳を取ったように感じるのは、その20年という年月のせいではない。
それは、ジョルジョとカルロのせいなのだ。
参ったな。
僕の思考は、さっきから同じ所をグルグルと回っている。
僕が昔持っていた、ビーチ・ボーイズのシングル盤『グッド・バイブレーション』みたいに、真ん中の辺りでいつも先に進まなくなって、レコード針を指で内側に押してやらなくてはならないのだ。
ひょい、と。
僕はワインを、一口飲む。
窓の外からは、子供たちの声が聞こえてくる。
ホテルの向かいが、幼稚園になっているのだ。
尼さんたちが小さな庭で、子供たちを遊ばせている。
僕はもう一口ワインを飲む。
霞がかかったように、不思議にぼんやりとした、ローマの空。
眠りたい、と僕は思う。
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