JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。
今週は、作家・原田マハのエッセイ『フーテンのマハ』を、一部編集してお送りしています。
今夜はその第3夜。
アートをテーマにした小説を、数多く刊行している原田マハにとって、数々の優れた美術館があり、見るべき展覧会が常に開催されているパリは、特別な町。
その中でも、彼女が
「実家に帰ってきたような感覚に陥る」
と言うのが、オランジュリー美術館だった。
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ルーヴル美術館まで広がる、チュイルリー公園の一角に、訪れる度にその美しさに溜め息が漏れる、睡蓮の池がある。
しかもその池は、美術館の中にあるのだ。
オランジュリー美術館の入り口から真っ直ぐ入っていくと、正面に楕円の形をしたギャラリーがある。
このギャラリーの壁一面を埋め尽くしているのが、クロード・モネの描いた晩年の傑作、『睡蓮』なのだ。
[ギャラリー]
モネは40代になってから、ノルマンディー地方にある小村、ジベルニーの古民家に居を定め、そこに理想の庭を造って、制作に励んだ。
時々刻々と移ろう日の光や大気を、カンバスに写し取る事に執念を燃やした彼は、一方で美しい庭造りにたっぷりと愛情を注いだ。
庭には大きな池を造り、睡蓮を浮かべた。
池にかかる太鼓橋は、日本美術に深く傾倒していたモネの趣味が、色濃く出ている。
モネは、この池の畔にイーゼルを建て、降り注ぐ陽光の下、あるいは暮れなずむ夕日の中で、何枚もの睡蓮の絵を描いた。
モネは、自分の死後に一般公開する事を条件に、他にも楕円形の展示室や、自然光を入れるなど、展示する際の細やかな指示も含めて、巨大な睡蓮の壁画を、フランス国家に寄贈した。
モネの死後、政府はこの作品を展示するために、オランジュリー美術館を建造した、という。
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私はもう何度、このオランジュリー美術館を訪れたか、数え切れない。
パリに行く度に、ホッと一息つくために出掛けている。
行けば行くほど親しみが湧き、
「ああ、またパリに帰ってきたんだなぁ」
と、しみじみとした思いが、胸に迫る。
[オランジュリー美術館]
この美術館、実はパリ市内の美術館で、最も早く開館する。
そして、朝一番で訪問すれば、素晴らしい体験が待っている。
楕円形の展示室の天井からは、うっすらと自然光が入るように設計されているのだが、午前中の光が睡蓮の池をより輝かせ、まるで本物の池の畔に佇んでいる気分になる。
睡蓮の壁画は、室内のカーブした壁に沿って、ぐるりと展示されている。
まさに、鑑賞者は池に囲まれているような錯覚に陥る。
自分が見た通りの風景を、この絵を見る人にも体験させたいという効果をこそ、モネは狙ったのである。
朝、昼、夕、宵。
それぞれの空と雲を映した、鏡のような水面。
微かな風が吹く直前、はらりと長い枝葉を垂らす柳の木。
そして、今し方夢から覚めたように、白い顔を綻ばせている睡蓮の花々。
この世界の最も良きもの、無垢な風景が、ここに集められている。
そんな、気がする。
展示室の中央にあるベンチにしばらく座って、室内に入ってくる人々の表情を、観察していた事がある。
足を踏み入れた瞬間、どの顔にも光が差し、パーッと輝くのを見た。
誰もが息を呑み、あるいはワーッと小さく歓声を上げ、吸い込まれるようにして、絵の近くへと歩み寄る。
アートは、人を幸福にする。
それを実証するかのような人々の顔を目撃して、私は何だか、とても嬉しかった。
【画像出典】


