『JET STREAM』
作家が描く世界への旅。
今週は、作家・村上春樹のメモワール『走ることについて語るときに僕の語ること』より、第7章を番組用に編集してお届けしています。
今夜はその第2夜。
ボストン近郊の大学街で、作家・村上春樹は、ニューヨークシティマラソンのために、日々走り込んでいた。
だが、問題が起きた。
何の前触れも無く、膝が痛み出したのだ。
本格的な秋を前に、ランナー・村上春樹に、不安が募る。
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雨が長く断続的に降り続き、その間に仕事の上での小旅行もあって、しばらくの間、思うようには走れなかった。
しかし、ニューヨークでのレースも間近になっている訳だから、走れない事自体は、それほど問題にはならない。
逆に休養がしっかり取れる、という利点はある。
疲れを取るために、休んでいた方がいいと分かっていても、レースが近いと、それなりに気持ちが盛り上がっているから、ついつい走り込んでしまう。
でも、雨が降っていれば、
「まあ、しょうがないや」
と、あっさり諦めてしまえる。
これは、良き側面だ。
問題は、そのようにろくに走ってもいないのにも関わらず、膝が痛みを訴えてきた事だった。
[膝の痛み]
人生におけるトラブルの大半がそうであるように、その痛みは何の前触れも無く、唐突に訪れた。
10月1日。
朝、アパートの階段を降りようとして、右膝が突然ガクッと来た。
ある角度に曲げると、膝の皿が独特の痛みを訴える。
ただ痛い、というのとは、少し違う。
あるポイントで、違和感のようなものがあり、ふっと力が入らなくなるのだ。
膝が笑う、という奴だ。
手すりを掴まないと、階段が降りられない。
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多分、ハードな練習を積んだ期間の疲れが、気温が急激に下がったおかげで、表面に顔を出してきたのだろう。
10月に入っても、夏の暑さがまだしつこく居残っていたのだが、1週間ばかり降り続いた雨が、ニューイングランド一帯に、急速に本格的な秋をもたらした。
ついこの間まで、冷房をつけていたというのに、今ではもう冷たい風が街を吹き抜け、見渡す限りを、すっかり晩秋の風景に変えてしまった。
[ニューイングランド]
ハードな日々の練習を友とする長距離ランナーにとっては、膝は常に泣き所である。
走っていれば、着地する度に体重の3倍の衝撃が、足にかかってくると言われている。
それが、一日におそらくは、1万回近く繰り返されるのだ。
固いコンクリートの路面と、理不尽とも言える荷重との間で、その間にシューズのクッションが挟まれているとはいえ、膝はじっと黙して耐えている。
そう考えてみると、普段はほとんどそんな事考えもしないのだが、問題が出てこない方が、どうかしているという気がする。
だって、たまには文句を言いたくなるだろう。
「鼻息荒く走るのはいいですが、少しくらいは私の事も、気遣ってくださいよ。
一旦ダメになったら、代わりは無いんですからね」
と。
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