『JET STREAM』
作家が描く世界への旅。
今週は、作家・村上春樹のメモワール『走ることについて語るときに僕の語ること』より、第4章「僕は小説を書く方法の多くを、道路を毎朝走ることから学んできた」を、番組用に編集してお届けしています。
今夜はその第4夜。
小説を書く事について、村上春樹は
「もし僕が小説家となった時、長距離を走り始めなかったとしたら、僕の書いている作品は、違ったものになっていただろう」
と、綴っている。
レイモンド・チャンドラーや自分自身を例えに、小説を書き続けるために必要な事、走る事への思いを語る。
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優れたミステリー作家であるレイモンド・チャンドラーは、
「たとえ何も書く事が無かったとしても、私は一日に何時間かは、必ず机の前に座って、一人で意識を集中する事にしている」
というような事を、ある私信の中で述べていたが、彼がどういうつもりでそんな事をしたのか、僕にはよく理解できる。
[レイモンド・チャンドラー]
チャンドラー氏は、そうする事によって、職業作家にとって必要な筋力を懸命に調教し、静かに士気を高めていたのである。
そのような日々の訓練が、彼にとっては不可欠な事だったのだ。
長編小説を書くという作業は、根本的には肉体労働である、と僕は認識している。
文章を書く事自体は、多分頭脳労働だ。
しかし、一冊のまとまった本を書き上げる事は、むしろ肉体労働に近い。
もちろん、本を書くために、何か重い物を持ち上げたり、速く走ったり、高く跳んだりする必要はない。
だから、世間の多くの人々は見かけだけを見て、作家の仕事を、静かな知的書斎労働だとみなしているようだ。
コーヒーカップを持ち上げる程度の力があれば、小説なんて書けてしまうんだろう、と。
しかし、実際にやってみれば、小説を書くというのが、そんな穏やかな仕事ではない事が、すぐにお分かりいただけるはずだ。
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僕自身について語るなら、僕は小説を書く事についての多くを、道路を毎朝走る事から学んできた。
自然に、フィジカルに、そして実務的に。
どの程度、どこまで自分を厳しく追い込んでいけばいいのか。
どれくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか。
どこまでが妥当な一貫性であって、どこからが偏狭さになるのか。
どれくらい外部の風景を意識しなくてはならず、どれくらい内部に深く集中すればいいのか。
どれくらい自分の能力を確信し、どれくらい自分を疑えばいいのか。
もし僕が小説家となった時、思い立って長距離を走り始めなかったとしたら、僕の書いている作品は、今あるものとは少なからず、違ったものになっていたのではないかという気がする。
具体的に、どんな風に違っていたか。
そこまでは、分からない。
でも、何かが大きく、異なっていたはずだ。
いずれにせよ、ここまで休む事なく走り続けてきて、良かったなと思う。
なぜなら、僕は自分が今書いている小説が、自分でも好きだからだ。
この次、自分の内から出てくる小説が、どんなものになるのか。
それが、楽しみだからだ。
一人の不完全な人間として、限界を抱えた一人の作家として、矛盾だらけのパッとしない人生の道を辿りながら、それでも、未だにそういう気持ちを抱く事ができるというのは、やはり一つの達成ではないだろうか?
いささか大袈裟かもしれないけれど、奇跡と言ってもいいような気さえする。
そしてもし、日々走る事が、そのような達成を多少なりとも補助してくれたのだとしたら、僕は走る事に対して、深く感謝しなくてはならないだろう。
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