2023/6/1 走ることについて語るときに僕の語ること④ | 福山機長の夜間飛行記録

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月曜日から金曜日までの毎晩放送されるラジオ番組"JET STREAM"のうち、福山雅治機長のフライト部分を文字に書き起こして写真を貼り付けただけの自己満足ブログです。(※特定の個人・団体とは一切関係ございません。)

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作家が描く世界への旅。


今週は、作家・村上春樹のメモワール『走ることについて語るときに僕の語ること』より、第4章「僕は小説を書く方法の多くを、道路を毎朝走ることから学んできた」を、番組用に編集してお届けしています。


今夜はその第4夜。


小説を書く事について、村上春樹は


「もし僕が小説家となった時、長距離を走り始めなかったとしたら、僕の書いている作品は、違ったものになっていただろう」


と、綴っている。


レイモンド・チャンドラーや自分自身を例えに、小説を書き続けるために必要な事、走る事への思いを語る。


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優れたミステリー作家であるレイモンド・チャンドラーは、


「たとえ何も書く事が無かったとしても、私は一日に何時間かは、必ず机の前に座って、一人で意識を集中する事にしている」


というような事を、ある私信の中で述べていたが、彼がどういうつもりでそんな事をしたのか、僕にはよく理解できる。


[レイモンド・チャンドラー]


チャンドラー氏は、そうする事によって、職業作家にとって必要な筋力を懸命に調教し、静かに士気を高めていたのである。


そのような日々の訓練が、彼にとっては不可欠な事だったのだ。


長編小説を書くという作業は、根本的には肉体労働である、と僕は認識している。


文章を書く事自体は、多分頭脳労働だ。


しかし、一冊のまとまった本を書き上げる事は、むしろ肉体労働に近い。


もちろん、本を書くために、何か重い物を持ち上げたり、速く走ったり、高く跳んだりする必要はない。


だから、世間の多くの人々は見かけだけを見て、作家の仕事を、静かな知的書斎労働だとみなしているようだ。


コーヒーカップを持ち上げる程度の力があれば、小説なんて書けてしまうんだろう、と。


しかし、実際にやってみれば、小説を書くというのが、そんな穏やかな仕事ではない事が、すぐにお分かりいただけるはずだ。


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僕自身について語るなら、僕は小説を書く事についての多くを、道路を毎朝走る事から学んできた。


自然に、フィジカルに、そして実務的に。


どの程度、どこまで自分を厳しく追い込んでいけばいいのか。


どれくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか。


どこまでが妥当な一貫性であって、どこからが偏狭さになるのか。


どれくらい外部の風景を意識しなくてはならず、どれくらい内部に深く集中すればいいのか。


どれくらい自分の能力を確信し、どれくらい自分を疑えばいいのか。


もし僕が小説家となった時、思い立って長距離を走り始めなかったとしたら、僕の書いている作品は、今あるものとは少なからず、違ったものになっていたのではないかという気がする。


具体的に、どんな風に違っていたか。


そこまでは、分からない。


でも、何かが大きく、異なっていたはずだ。


いずれにせよ、ここまで休む事なく走り続けてきて、良かったなと思う。


なぜなら、僕は自分が今書いている小説が、自分でも好きだからだ。


この次、自分の内から出てくる小説が、どんなものになるのか。


それが、楽しみだからだ。


一人の不完全な人間として、限界を抱えた一人の作家として、矛盾だらけのパッとしない人生の道を辿りながら、それでも、未だにそういう気持ちを抱く事ができるというのは、やはり一つの達成ではないだろうか?


いささか大袈裟かもしれないけれど、奇跡と言ってもいいような気さえする。


そしてもし、日々走る事が、そのような達成を多少なりとも補助してくれたのだとしたら、僕は走る事に対して、深く感謝しなくてはならないだろう。


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