『JET STREAM』
作家が描く世界への旅。
今週は、ドイツの作家・詩人であるヘルマン・ヘッセの『庭仕事の愉しみ』から、一部抜粋してお送りしています。
翻訳は、岡田朝雄。
今夜は、エッセイ「庭にて」から、第3夜。
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私がいつも驚き、考え込まずにいられない事は、このような庭園の夏が来て、過ぎてしまう、その非常な速さと慌ただしさである。
数ヶ月の間に、この短い時間に、様々な生き物が花壇の中で成長し、繁栄を誇り、生きて、枯れて、死んでいく。
一つの花壇に、いっぱいの若い植物が植えられ、水が注がれ、肥料が与えられたかと思う間に、それはもう芽を出し、生長し、その儚い繁栄を誇り、そして月が2〜3度替わるか替わらないうちに、その若い植物はもう老いて、その目的を果たし、根こそぎにされ、新しい生命に席を譲らなくてはならない。
そして、一つの庭の中では、全ての命あるものの密接な循環が、他のどこよりもずっと緊密に、ずっとはっきりと、そしてずっと分かりやすく見る事が、できる。
庭の季節が始まるか始まらないうちに、早くも屑や死骸や、切り取られた若い枝や、刈り取られた茎や、押し潰されたりして死んだ植物が、出てくる。
そして、週ごとにそれは増えていく。
それらは、みんな台所のゴミ、りんごやレモンの皮や卵の殻や、色々な種類の屑と共に、堆肥の山に積まれる。
[堆肥]
それらがしおれ、朽ちて、消滅する事は、どうでもよい事ではない。
それは大切にされ、投げ捨てられるものなど、一つも無い。
庭師が入念に管理してきた、その醜い堆肥の山を、太陽や雨や、霧や風や寒気が分解する。
そして、またほとんど1年も経たぬうちに、庭の一夏が終わらぬうちに、死んでしまった全てのものは早くも腐敗して、再び大地に還っていき、大地を肥沃に黒々と、実り豊かなものにしなくてはならない。
そして、まもなく再び、陰気な塵芥と屍の中から、新たに若い芽、若い枝が伸びてくる。
腐敗し、分解されたものが力強く、新しい、美しい、多彩な姿になって、蘇ってくるのだ。
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そして、この単純で確実な循環全体が、どんな小さな庭でも、密かに、速やかに、紛れもなく進行している。
この循環については、人間は色々難しい事を考え、全ての宗教は、これを畏敬を込めて解釈している。
どんな夏も、前の夏の死によって、養われないものは無い。
そしてどんな植物も、土から生まれたと同じく、密かに、確実に、土に還っていく。
私は自分の小さな庭に、楽しい春の期待を込めて、インゲンやレタス、木犀草やコショウソウの種を蒔き、それらに前年の作物の残滓を肥料として与え、前年の作物の事を思い返し、新たに生えてくる植物に、思いを馳せる。
誰でもそうであるように、私もこの整然とした循環を、当然のしみじみと心に叶う事として、受け入れる。
そしてほんの時折、種を蒔いたり、収穫をしたりする時に、心の中で吸う瞬間、この地上のあらゆる生き物の中で、一人私たち人間だけが、この事物の循環に不服を言い、万物が不滅であるという事だけでは満足できず、自分たちのために、個人の、自分だけの、特別な物を持ちたがるというのは、なんと不思議な事であろうかと、思う事がある。
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