『JET STREAM』
作家が描く世界への旅。
今週は、モーパッサン『旅にて』を、一部編集してお送りします。
翻訳は、山田登世子。
1850年、フランスに生まれたギ・ド・モーパッサンは、パリ大学進学後、普仏戦争で軍役に就く。
その後、パリの海軍省の役人となり、その傍ら小説を発表、流行作家となる。
代表作に、『脂肪の塊』『女の一生』など。
『旅にて』は、短編小説の名手と知られるモーパッサンが、300編近く残した作品の中の一つである。
今夜は、その第1夜。
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カンヌから、客車は満人だった。
乗り合わせた乗客は、皆知り合いで、お喋りに興じていた。
タラスコンを過ぎた時、誰かが言った。
「ここですよ。
殺人があったのは」
すると、皆一斉に、この2年間で数人も旅行者の命を奪った、殺人犯の事を話し始めた。
謎の犯人は、まだ捕まっていなかったのだ。
めいめいが、自分の推理を口にして、意見を述べた。
婦人たちは、ガラスの窓越しに暗い夜景を眺めては、いきなり扉に男の顔が現れたら、どんなに恐ろしいだろうかと、恐怖に身を震わせた。
そうするうちに、乗客たちは、怪しい者に出くわした恐怖譚を語り始めた。
急行列車の中で、おかしな連中と肘突き合わせた話だとか、怪しい人物を前にしたまま、数時間過ごした事件だとか、話は尽きなかった。
どの紳士も、手柄話を持っていた。
それぞれが、予期せぬ状況下で悪党に出会い、怯まずに相手取って、殴り倒し、才気を働かせ、見事な勇気を発揮して、悪党を取り押さえた経歴を持っていた。
すると、毎冬を南仏で過ごしている医者が一人、今度は自分の知るアバンチュールを、語り始めた。
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「私は、そのような恐ろしい事件に出くわして、自分の勇気を試してみる機会はありませんでしたが、ある女性を知っておりまして。
その女性というのは、私の患者で、もう今は亡くなられた方なのですが、その方が、世にも不思議な事件を経験した事があるのです。
不思議なだけでなく、実に神秘的で、心打たれる事件なんです。
そのご婦人はロシア人で、マリーア・バラノーア伯爵夫人という方です。
大貴族のご夫人で、しかも絶世の美貌でした。
伯爵夫人の主治医は、数年前から夫人が胸の病に侵されているのを知っていて、南仏に保養に行く決心を促していました。
けれども、夫人はどうしても、ぺテルスブルグを離れようとはしません。
とうとう去年の秋、このままではもう駄目だと思った医者が、夫の伯爵にその旨を告げたので、伯爵はすぐにマントンに発つように、妻に命じたのです。
[マントン]
夫人は、列車に乗りました。
車両に一人きりで、召し使いたちは別の車両に乗っていました。
扉にもたれて、寂しげに田園や村が遠ざかっていく車窓を見ていました。
自分が一人ぼっちで、人生に見捨てられている気が、しました。
子供も無く、ほとんど親族も無く、もはや愛情の無い夫は、一緒に来るでもなく。
こうして、自分を世界の果てに、追いやってしまうのです。
まるで、病気になった召し使いを、病院に入れるように」
【画像出典】