2023/1/30 旅にて① | 福山機長の夜間飛行記録

福山機長の夜間飛行記録

月曜日から金曜日までの毎晩放送されるラジオ番組"JET STREAM"のうち、福山雅治機長のフライト部分を文字に書き起こして写真を貼り付けただけの自己満足ブログです。(※特定の個人・団体とは一切関係ございません。)

JET STREAM


作家が描く世界への旅。


今週は、モーパッサン『旅にて』を、一部編集してお送りします。


翻訳は、山田登世子。



1850年、フランスに生まれたギ・ド・モーパッサンは、パリ大学進学後、普仏戦争で軍役に就く。


その後、パリの海軍省の役人となり、その傍ら小説を発表、流行作家となる。


代表作に、『脂肪の塊』『女の一生』など。


『旅にて』は、短編小説の名手と知られるモーパッサンが、300編近く残した作品の中の一つである。


今夜は、その第1夜。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


カンヌから、客車は満人だった。


乗り合わせた乗客は、皆知り合いで、お喋りに興じていた。


タラスコンを過ぎた時、誰かが言った。


「ここですよ。


殺人があったのは」


すると、皆一斉に、この2年間で数人も旅行者の命を奪った、殺人犯の事を話し始めた。


謎の犯人は、まだ捕まっていなかったのだ。


めいめいが、自分の推理を口にして、意見を述べた。


婦人たちは、ガラスの窓越しに暗い夜景を眺めては、いきなり扉に男の顔が現れたら、どんなに恐ろしいだろうかと、恐怖に身を震わせた。


そうするうちに、乗客たちは、怪しい者に出くわした恐怖譚を語り始めた。


急行列車の中で、おかしな連中と肘突き合わせた話だとか、怪しい人物を前にしたまま、数時間過ごした事件だとか、話は尽きなかった。


どの紳士も、手柄話を持っていた。


それぞれが、予期せぬ状況下で悪党に出会い、怯まずに相手取って、殴り倒し、才気を働かせ、見事な勇気を発揮して、悪党を取り押さえた経歴を持っていた。


すると、毎冬を南仏で過ごしている医者が一人、今度は自分の知るアバンチュールを、語り始めた。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


「私は、そのような恐ろしい事件に出くわして、自分の勇気を試してみる機会はありませんでしたが、ある女性を知っておりまして。


その女性というのは、私の患者で、もう今は亡くなられた方なのですが、その方が、世にも不思議な事件を経験した事があるのです。


不思議なだけでなく、実に神秘的で、心打たれる事件なんです。


そのご婦人はロシア人で、マリーア・バラノーア伯爵夫人という方です。


大貴族のご夫人で、しかも絶世の美貌でした。


伯爵夫人の主治医は、数年前から夫人が胸の病に侵されているのを知っていて、南仏に保養に行く決心を促していました。


けれども、夫人はどうしても、ぺテルスブルグを離れようとはしません。


とうとう去年の秋、このままではもう駄目だと思った医者が、夫の伯爵にその旨を告げたので、伯爵はすぐにマントンに発つように、妻に命じたのです。


[マントン]


夫人は、列車に乗りました。


車両に一人きりで、召し使いたちは別の車両に乗っていました。


扉にもたれて、寂しげに田園や村が遠ざかっていく車窓を見ていました。


自分が一人ぼっちで、人生に見捨てられている気が、しました。


子供も無く、ほとんど親族も無く、もはや愛情の無い夫は、一緒に来るでもなく。


こうして、自分を世界の果てに、追いやってしまうのです。


まるで、病気になった召し使いを、病院に入れるように」


【画像出典】