「新しい空の旅へ」という想いを込めて、毎週様々な主人公の旅の物語をお送りしている、『JET STREAM』。
今週は、作家・谷村志穂書き下ろしの旅の物語を、5日間に渡ってお送りしています。
今夜は第2夜。
舞台は、北海道・函館。
毎年のように赴任先が変わり、引っ越しをする事になる夫。
『星の王子さま』の作家、そしてパイロットでもあったフランス人、サン=テグジュペリをこよなく愛する妻。
夫の赴任先である函館を目指して、妻は飛行機に乗る。
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夫の赴任先は、通常半年から1年で変わる。
だから東京の家は、そのままにしてある。
結婚前も、夫婦になった今も、赴任先へついて行くかどうかを決めるのは、私に託されている。
いつも二人は、新しい場所に対する、謎かけのようなやり取りをする。
そして、ようやく町の名前が分かると、私はまず一人で、そこへ出掛ける。
自分の心に、嘘をつきたくないから。
「お互いを見つめ合う事ではなくて、同じ方向を見つめる事が愛なんだ」
と言ったのも、そういえば、飛行機乗りでいつも妻に留守番をさせた、サン=テグジュペリだった。
飛行機は間もなく、着陸態勢に入る。
上空からは、淡いグレー混じりの海の水面が、かすかに泡立って見え始めた。
その山も、視界に入ってきた。
本当だ。
ウワバミのあの絵によく似ている。
[函館山]
浮島だった山が陸と繋がったのは、トンボロのせい。
彼の話なら、不思議なくらい頭に入っている。
「もしかしたら、函館?」
と答えが分かった理由は、彼がその町に鳴り響く、鐘の音について話し始めたからだった。
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彼は言う。
「山の中腹から裾野にかけては、19もの坂が延びていて、青柳坂とか、日和坂、基坂、弥生坂、幸坂、それぞれの坂に謂れがあるみたいで、今も人の暮らしが宿り、風景があった。
そして、どの坂からも、港が抜けて見えるんだよ。
元町と呼ばれる中腹のエリアには、坂道の間を這うように教会が点在している。
教会は、どれも港を見下ろして立っている。
日曜日になると、あちらこちらの教会から一斉に鐘の音が鳴り響くんだよ。
司祭が、両手両足を使って鐘を鳴らす教会は、ロシアのハリストス聖教会。
[ハリストス聖教会]
海からの風に、司祭の纏う法衣の裾が舞う。
イギリスの聖ヨハネ教会は、白い壁に十字の形を模した茶色い屋根。
[聖ヨハネ教会]
フランスの元町カトリック教会はゴシック建築で、頂には大鐘楼があり、風見鶏が立っている。
[元町カトリック教会]
ロシア、イギリス、フランス、日本の仏教寺。
それぞれの国の宗教が、鐘を鳴らすんだ」
そこまで聞いて私は、ウワバミ山のある町が分かったのだ。
函館だったのね、と。
彼は、
「鐘を鳴らしながら、人々は何を祈ってるんだろうね?
教会の鐘、自然の音、カモメの声、その町の人々の使う方言。
僕は、一日中歩いていてとても楽しかったよ」
そして、夜にふらりと入ったバーで流れていたのは、トム・ウェイツのしゃがれた歌声だった。
そう言った。
「じゃあ、あなたにはきっとまた、その町での時間が、あっという間に過ぎていくわね。
私がいなくても、きっとまた」
彼は何も返事をしない。
こちらを見る訳でもない。
それでも、あなたを好きでいられるのは、その間が誠実に思えるからだ。
「ねえ、いつまでに決めたらいい?」
私が聞くと、
「いつでも。
好きに決めたらいい。
好きに決めてほしいんだよ。
僕のせいで、君が何かを諦めてくれなくていい」
【画像出典】