放送開始から、今年で55周年を迎える『JET STREAM』。
「新しい空の旅へ」という想いを込めて、装い新たに、様々な主人公の旅の物語を、5日間にわたってお送りしています。
今週は、作家・村上春樹のエッセイ『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』より、一部を編集してお届けしています。
今夜はその、第3夜。
ウイスキーを、心ゆくまで味わう村上春樹の旅は、スコットランドのアイラ島から、アイルランドへ。
その美しく深い緑の風景を、旅の記憶に染み込ませながら、ウイスキーを飲む。
行き先を決めず、のんびりと小さな町を巡り、アイルランドという土地の魅力をしみじみと味わい、旅を続ける。
そんな贅沢な時間を、アイリッシュウイスキーの飲み方を、作家は読者に語りかける。
こんな、ふうに。
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ダブリンから飛行機に乗って海を越え、ロンドンのギャトウィック空港に降り立ち、ロンドンに向かう高速道路の上から眺める樹木の緑が、東京から来ればそれだって十分深い田園の緑に見えるのだが、なんだかやけに浅く薄く、埃っぽく映るのだ。
思わず、ゴシゴシと目をこすりたくなるくらい。
それで僕らは、「ああ、アイルランドの緑は、なんと鮮やかでなんと広く、なんと深かったのだろう」と、ため息をついて思い返す事になる訳だ。
それは僕らに、例えばエジプトのピラミッドとか、ギリシャの神殿とかナイアガラの滝みたいに、特に大きな感動なり、驚嘆なり、思い入れなりを、直接的に要求しない。
どこに行っても風景は美しいのだけれど、不思議に絵葉書にはなりにくい。
[アイルランドの風景]
アイルランドの美しさが僕らに差し出すのは、感動や驚嘆より、むしろ癒しとか鎮静に近いものである。
口を開くまでに少し時間がかかるけれど、一旦話し出すと、穏やかな口ぶりでとても面白い話をしてくれる人が世間にはいるが、アイルランドはちょっとそれに似ている。
アイルランドを旅する僕らの前には、そのように穏やかなアイルランド的な日々が、一つ一つ口数少なく積み重ねられていく。
この国にいると、自分でも気がつかないうちに、話し方や歩き方がだんだんゆっくりしてくる。
空を眺めたり、海を眺めたりする時間が、だんだん長くなってくる。
でもそれらが、実に得難い日々であったのだという事を、僕らが身に染みて知るのは、もう少し後の事だ。
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前もって、特に宿も定めずに、行き当たりばったりで良さそうな宿を見つけて泊まる。
そういう宿は、すぐに見つかる。
近所に美味しそうなレストランなり、パブがあれば、そこに行ってビールを飲み、夕食を食べる。
食前か食後に、1杯。
2杯でもいいけれど、アイリッシュウイスキーを飲む。
[アイリッシュウイスキー]
「氷は欲しい?」
と、尋ねられる。
「いや、水だけで結構」
と答える。
主人は、うむうむという顔で、にっこり微笑む。
大ぶりなグラスに、アイリッシュウイスキーがたっぷりと、ダブル入って出てくる。
トリプルくらいはある。
その隣には、小さな水差しに入った、水がついてくる。
ミネラルウォーター、などという無粋なものは出てこない。
タップウォーターの方が、生き生きとしてずっと美味いのだから。
土地の人は、だいたいウイスキーを水と半々くらいで、割って飲む。
アイルランドを舞台にしたジョン・フォード監督の映画『静かなる男』の中で、バリー・フィッツジェラルドがウイスキーを勧められ、
「水はいる?」
と尋ねられて、
「わしゃ水を飲みたい時には、水だけ飲む。
ウイスキーを飲みたい時は、ウイスキーだけ飲む」
と答える、なかなかチャーミングな場面があったけれど、実際にはそういう人は少数派で、少量の水を加えて飲む人がほとんどである。
「その方が、ウイスキーの味が活きるんだ」
と、彼らは言う。
グラスをくるりと大きく回してある。
水が、ウイスキーの中でゆっくり回転する。
澄んだ水と、美しい琥珀の液体が、比重の違いがもたらす模様をしばらくの間描き、やがて一つに溶け合っていく。
【画像出典】