死に関するひとつの考察 | ccrocoeさんのブログ

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こころ

おもい 徒然 

向いたとき


✻ 過去詩集を差し上げます。興味ある方はご一報ください。



単なる通過点。
魂の駅。
時のつまづき。
…時間に属するあらゆる死は、他のあらゆる生のなかに含まれている。そしてたぶん、生もまた死に含まれる。

生物学的な死によって記憶(意識)が消滅すると考えた場合、主体の記憶の消滅がいわゆる死(生物学的死)であるといえると思う。すると、記憶(意識)は個体ごとに独立しているので、たとえ(生物学的な)死に際しても、その存在を記憶している他の生者がいる限り彼(または彼ら)の記憶のなかに『生き』続けると捉えることが可能になる。それら記憶に『生きる』者たちは、主体の生物学的死により現存の有無に関係なく『消滅(死)』する。
たとえば、相互に認識のある関係で片方が生物学的に死んだ場合、彼は相方の記憶のなかに未だ『生きている』が、彼の記憶のなかの相方は『死(消滅)』する。(つまり相方は己の『生きる』場所を一つ失う)

このように、わたし達は縁ある者同士がお互いの生き死にを含み合って存在しているのではないかと思う。生物学的死者は、縁あった未だ生く者たちの記憶に『生き』続け、彼らの(生物学的)死によって少しずつ居場所を減らし、やがて完全に消滅する。それは新しい命が発生し、徐々に多くの生者に認知されてゆく過程と綺麗に対照すると思う。自然の営みに突発的なものは稀だと改めて感じる。発生も、消滅さえも穏やかな曲線を描く。

こう考えると、私は死への恐怖めいた感情が少し和らぐ。自然に懐かれている死ならば、それは間違ってはいない‥怖がる必要はない、と思えてくる。
そもそも、あらゆる命には細胞ひとつから生きる意志とともにその死もプログラミングされている。そういった本来的なものに拒否感を抱くのは考えてみれば不思議でもある。もしかしたら、恐怖(受け入れ難い)と捉えている死は、自身のプログラムとは異なる、想定外の死を予感したときに限るのだろうか。それは表裏一体にプログラミングされた生きる意志にも反する予感でもあろうし、本能的に拒否感を抱くのも頷ける。
プログラム通りの死は恐怖の対象外として、実は(無意識に)心得ているのかもしれない。本来の寿命ならばごく自然に受け入れられるのかもしれない。人生の節目節目で訪れる心身の変化と同じように。
願わくは、そうあってほしいと私は思う。やがて必ず訪れる死ならばこそ、せめて安らかなる恵みとして穏やかに迎えたい。


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