前の晩、サムギョプサルを肴にメートルが上がり過ぎ *1 (一体何時の時代だ)…
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*1; 「メートルが上がる」
「尺=酌が上がる」事から、主に(酒の)飲み過ぎの状態を指す。
法改正により1959年から尺貫法が使用不可になった事を受け、尺=酌をメートルに置き換えたとされる。
主に昭和中期、「サザエさん時代」に用いられた。語源、用法については諸説あり。




意識が戻ったのは何と出発時刻。
ご同行の皆様には、大変ご迷惑をお掛け致しました。
改めてお詫びを申し上げますm(_ _)m


最終搭乗者(私)をようやく乗せたバスは一路、水原へ。
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目的地到着が少し早かったので、「水原華城 (すうぉんふぁそん)」を車窓見学。


水原は幾度も訪れているのに、実は水原華城を見るのは初めて(^^ゞ




実は「ここってどんなお城?」と尋ねられたのに、この時まだ宿酔い以前状態。
説明が支離滅裂になってしまいました。

なのでお詫び方々、水原華城についてまとめます。


「水原華城(すうぉんふぁそん)」は、朝鮮王朝後期の第22代王「正祖(ちょんじょ 在位1776~1800年)」により、当時の最新技術(西洋式の建築技術や煉瓦の多用など)を用いて築城された、面積約1.3k㎡、城壁の長さ5.7kmに及ぶ、「新しい都」を目指したした「都城」です。

表向きの築城の理由は非業の死を遂げた正祖の父 *2 の追悼ですが、実際は山間にあり拡張の余地が少ない都、漢城府(はんそんぶ 現;ソウル特別市)から、拡張の可能性が高い水原への遷都を目指していました。


漢江の南側から見た、漢城府(ソウル旧市街)。
漢江から少し離れた、北の谷間だった事が今も窺えます。
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また、遷都にはもうひとつの理由があり、当時絶大な勢力を誇った派閥「老論(のろん)-僻派(ぴょくぱ)」と、その中枢を握る氏族「安東 金氏(あんどん きむし)」が漢城府に持つ巨大な権益を、新たな商工業圏の設立により緩和しようと試みたのでした。

着工から2年後の1796年、水原華城は一応の完成を見ますが、それから僅か4年後の1800年、正祖は48歳で薨御 *3 。
遷都は実現せず、正祖の思い描いた改革は全て水泡に帰してしまいます。

*2; 「正祖の父」
思悼世子(さどせじゃ)、後に荘献世子(ちゃんほんせじゃ) 1735~1762年。
当時の熾烈な派閥争いから謀反の疑いをかけられ、父の21代王「英祖(よんじょ)」により米櫃に幽閉という処罰を受け横死。(壬午士禍)

*3; 「正祖は48歳で薨御」
突然の薨御のため、今に至るまで謀殺説が取り沙汰されるがその根拠は見つからず、過剰なストレスを受け続けた事による(所謂)過労死、或いはがんだったのではないかと考えられている。



以下、漢城府での暗闘の数々…


「昌慶宮(ちゃんぎょんぐん)」内の「文政殿(むんじょんじょん)」の前庭。
英祖が思悼世子を幽閉した米櫃は、ここに置かれたと云われています。
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正祖が最期の時を過ごしたと云われる、昌慶宮の「迎春軒(よんちゅんこん)」。
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昌慶宮について詳しくは、こちらで。



正祖の薨御後、安東金氏は僅か10歳の「純祖(すんじょ)」を23代王に即位させ、その後ろ盾となる事で権力を手中に収めます。

次の24代王「憲宗(ほんじょん)」は王朝史上最年少、即位時7歳。
その次の25代王「哲宗(ちょるじょん)」は、即位時18歳。
思うがままに幼少の王を擁立し、60年間に渡り権力を独占し続けます。

こうした権力の私物化が、激動の19世紀にあって一切の異論を排除する方向に機能し、また、過去の栄光のみを参照する教条主義を蔓延させ、この地の近代化を大幅に遅らせます。

正祖が育てようとした「実学」 *4 は、権力の一極集中により途絶えてしまいました。水原華城は今に残る実学の成果であり、壮大な墓碑でもありました。


そして王朝末期、最後の王となる26代王「高宗(こじょん)」の即位により、安東金氏の権力独占が崩れます。

しかしそれは安東金氏に加え、「豊壌 趙氏(ぷんやん ちょし)」や「全州 李氏(ちょんじゅ いし)」、「驪興 閔氏(よふん みんし)」といった、高宗を取り巻く勢力による権力争いの更なる泥沼化を招き、王朝は終焉を迎え、時代は20世紀に入ります。

*4; 「実学 (しるはく)」
従来の因襲を離れ、合理的な制度の構築や産業の発展を目指す、実用性を重視した思想。
西洋文化の部分的な受容、キリスト教への寛容を含む。
但し「実学」は後世の概念化であり、当時どのように意識されていたかには様々な議論がある。
対義として「小中華思想」。




王朝最末期の陰謀の中心地。「雲峴宮(うにょんぐん)」の「老安堂(のあんだん)」。
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雲峴宮について詳しくは、こちらで。




1894年に日清戦争が勃発、翌1895年に「日清講和条約(下関条約)」が発効。

その翌年、1896年に高宗は保護を求め、ロシア公使館に避難します。
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現在視点から見ると王朝の衰退を決定付ける、象徴的な出来事でした。


高宗がロシア公使館に避難する際、通り抜けたと云われる徳寿宮の脱出路。
当時は存在が隠されていたと云われています。
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この通路、現在復元工事が進行中。象徴的な道を復元する、その心は…
王朝と歴史に対するアンビバレンツってやつでしょうか(^^ゞ



1897年、国号を「大韓帝国」と改め、高宗は「大韓帝国初代皇帝」に即位します。
同年竣工の独立を寿ぐ「独立門(とんにんむん)」。
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ここから「近代国家」に向け、舵を切る筈が…


1904年に日露戦争が勃発。翌1905年に「日露講和条約(ポーツマス条約」が発効。
この地を巡る情勢は、全く新たな局面を迎える事になります。

1926年に「京城府庁舎」として竣工した、旧;ソウル市庁舎、現在のソウル図書館。
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目先の権力維持のため引き込んだ「近代国家」との関係性が、100年を越えた今もこの地に燻り続けようとは、当時は誰も予想しなかったのでしょう。


これが歴史の皮肉という奴なのだなあと思いつつ、脱線は終了です。

歴史って一定の流れなので、どうしてもお話が長くなってしまいます(笑)






さてと、ちょうど時間となりました。

今年もお肉の山を眺められる幸せに、感謝します。
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今回も、お肉の山を眺めるための労を取ってくださった幹事の皆さま、本当にありがとうございます。


それでは、各種ぱんちゃん(おかず)とともに、いただきまーす。
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そしてこの後、いわゆる酔いがぶり返し、画像が無いのでした(笑)


幹事の皆さま、ご一緒いただいた皆さまのお陰で、今回もとても楽しいひと時を過ごす事が出来ました。改めてありがとうございますm(_ _)m

とはいえ、もう歳なのだから、飲み過ぎ食べ過ぎには注意が必要です(^^ゞ
(反省、反省)



水原から明洞に戻り、アンティーク趣味のこんなお店にお邪魔します。
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こうして楽しいひと時が、あっという間に過ぎてゆくのでした。