「電気羊はナヴァロンの夢を見るか?」というタイトルを最初に思い付いたのですが、あまりにも寓意がすぎるのでボツにしました。(とか言いながら載せてるし…)
 
前回の記事で、
「実はこの後、米(連合国)軍は沖縄を拠点に南九州に侵攻、更にそこを足掛かりに相模湾沿岸と九十九里浜に上陸、一気に東京に到達する予定だった事まで続け…」
 
と書いた部分、もう止めようと思ったのに、画像の用意があるもので、勿体無い根性からもう一回(^^ゞ
 
 
1945年7月、赤丸が米(連合国)軍が確保した地点。
(フィリピンでは未だ交戦中でしたが、その帰趨は明らかでした…)
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米(連合国)軍は沖縄占領の次の段階として、南九州への侵攻を計画。
鹿児島県と宮崎県に一挙に上陸し、本土侵攻の拠点とするつもりでした。
開始日は1945年11月1日(X-Day)。
 
 
そして最終段階としての1946年3月1日(Y-Day)、
鹿児島・宮崎から、神奈川県の湘南海岸、千葉県の九十九里浜、茨城県の鹿島灘の海岸に同時上陸、そこから一気に東京を制圧する計画でした。
(Z-Dayは、おそらく「東京が落ちた日」なのでしょう…)
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しかしこの3地点は、黒潮の影響をまともに受ける、かなりの航海の難所です。
潮の流れがとても速い上に、複雑で厄介な波が立ち(なのでサーフィン向きですが)、
一旦針路を外すと、確実に望まない方向-大抵沖に流されます。
特に鹿島灘では、大型船の海難事故が幾度も起きています。
 
例えば船嫌いを量産する伊豆諸島航路、あんなに乗り心地が悪いのは、黒潮を直接横切る事が大きく影響しています。
更にこの3地点、長い砂浜がありながら海水浴場が一部に限られるのも、危険な波が立ち、沖に流されやすい場所が多いためです。
 
果たしてそのあたりは計算に入っていたのかなあ…
 
 
かといって東京に直接接近するためには、東京湾の最奥まで進まねばなりません。
しかも東京湾の入口、浦賀水道は狭い上にこちらも潮の流れが速く、大量の艦艇を一気に突入させるのは不可能です。
 
奥の千葉県の房総半島、手前の神奈川県の三浦半島に挟まれ、狭く折れ曲がった浦賀水道。
更に外海を黒潮が流れ、こちらも相当な航海の難所です。
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黒潮より、この狭い水道の持つ軍事リスクのほうがより危険という判断だったのでしょう。
更に、東京湾内には上陸好適地が少ないという事情もありそうです。

 
日本ではこの侵攻をかなり正確に予測し、対応策の準備を始めていました。
準備開始が1944年7月というのは、個人的にはちょっと奇妙に思えますが、深入りしないようにします。(硫黄島や沖縄より前。マリアナ諸島で…)
 
この予測の正確さは、上陸時期や上陸地点まで米(連合国)軍の計画とほぼ一致、
後に米軍が機密漏洩を疑う程でした。
 
 
相模湾、湘南の長く平坦な海岸線。手前から逗子・鎌倉・藤沢・茅ヶ崎と続きます。
まさしくここが、米(連合国)軍の上陸予定地点のひとつでした。
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平塚から西の相模湾西部は、予定から外されていたようです。
相模川の渡河を懸念したのでしょうか。相模川の左が茅ヶ崎、右が平塚です。
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こういう景色を見ると、ついつい余計な事を考えます。
相模川の渡河は嫌うのに、利根川や江戸川、多摩川は無視する方針?
それに、相模湾は東が浅くて西が深いから、西の方が大型艦向きと思えるし…
 
 
まあ余計な事はともかく、上陸予想地点の中央には、江戸時代から今に至るまで観光名所の“モンサンミシェル”江の島があります。
 
長く平坦な海岸から突き出す独特な地形を利用し、日本はここを砲撃陣地とします。
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狙って撮った写真ではないので残念ながら写ってはいませんが、島の西側、江の島展望灯台(シーキャンドル)の真下の山腹に西砲台。
キャノン砲を収めた砲室や、銃撃用の銃眼が今も口を開けている筈です。
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更に、この海岸線には洞窟陣地が数多く掘られ、今もそのままになっています。
 
 
島の東側には東砲台。確かこの崖だったか、
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この崖に…
砲室が今でも口を開けている筈なのですが、見つけられませんでした。残念。
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かなり昔に訪れたきりなので、記憶が曖昧になっていたのかも。
でも確実に、この辺りの崖に洞窟要塞が潜んでいる筈です。
 
 
島の南側の崖には、掘りかけて止めたらしい長方形の窪みが残ります。
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こちらの窪みには、ドリル痕らしき丸い穴も見られます。
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問題が起きて途中で止めたのか、工事中に終戦を迎えたのか…
 
砲室の開口部を上手く見つけられず、微妙な不発感が漂うので(大砲だけに?)、
更に続けます。
 
 
江の島のすぐ東の片瀬東浜から腰越に、海からもよく見える1337年建立の大きなお寺、日蓮聖人縁の龍口寺があります。
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江戸中後期の建物も残るその境内には、洞窟陣地らしき址が今も残っています。
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龍口寺以外にも、この周辺には海岸段丘を利用した壕が数多く残ります。
全てが対上陸作戦用とは言い切れませんが、利用予定はあったと思われます。
 
うーん、何だか状況証拠ばかり。ならば確実なものを。
 
 
江の島から大船方向に向かう古くからの街道、小袋谷江の島道(現在の県道304号)を2km程進んだところにある小さな丘。
 
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地形による緩いカーブのちょうど出口にあたります。
丘があるのは画面左手。
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奥の海側から来ると、カーブにより見えにくいこの場所に、
 
素掘りの銃眼が、今もひっそりと口を開けています。
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東京に向かう上陸部隊はこの道を通る筈と予想し、狙撃地点としたのでしょう。
そこまで精密な予想に感心する半面、その頭脳と労力を他に使う事は出来なかったのかという思いがしてしまいます。
 
しかも江の島やその周辺は、凝灰砂岩と呼ばれるかなり脆い地質です。
爆破されたら崩れやすいとか、考えなかったのかなあ。
 
 
更に、この規模の銃眼から発射可能な弾丸では、米(連合国)軍のM4中戦車の側面(弱い部分)にダメージを与える事は難しそうです。
(毎回、M4シャーマンを出したいだけ? 最終型「M4A3E8」 ソウル戦争記念館所蔵)
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再び海岸線に戻り、江の島の東4kmに古くからの景勝地、稲村ヶ崎があります。
 
鎌倉末期の1333年、
鎌倉に攻め入る新田義貞の軍勢がここを越えられずに難渋した時、義貞が龍神に祈り、己の太刀を海に投げ入れるとたちまち潮が引き、軍勢は砂浜を越え一気に鎌倉に攻め入った… という伝説の地でもあります。
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奥の崖の中腹に、スリットが切られているのが分かるでしょうか。
 
近付いてみました。
洞窟陣地の銃眼です。周囲をコンクリートで固めたかなり頑丈そうな造りです。
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訪れた時は潮が高くて近付けませんでしたが(新田義貞みたいに太刀を投げれば良かった?)、実はこの銃眼の下に二か所、出入口が開いています。
その出入口は、海軍の「伏龍」の出撃口だったと云われています。
 
洞窟陣地は陸軍、「伏龍」陣地は海軍。内部は繋がっていないという噂があります。
それが本当なら、こんな所でも縄張り争いをしていたのかと…(以下略)
 
 
ここまで個別の兵器や戦術に深入りしないようにしてきたのですが、「伏龍」についてだけは触れておきたいと思います。
 
「伏龍」待機中の様子を模してみました。
 
要は潜水具を着けた隊員が海底に沈座、水面を通過する艦艇に対し、
棒の先に装着した爆薬を突き出して爆破するという「爆薬付水中竹槍」??
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これは最早兵器なのか戦法なのか、何なのか…
 
そもそも潜水具がとんでもない代物で、長時間潜水かつ気泡を外に出さぬよう、呼気を二酸化炭素吸着フィルタを通した後に酸素と混合する循環式。
データ上では5時間の連続潜水が可能。と、ここまで書いただけでもう既に無茶。
 
しかも、逆流防止弁すら省いたのか、呼吸法を間違えると即二酸化炭素中毒というあり得ない仕様(酸素酔いだって起こしそうです)。
更に、吸着フィルタの主剤が水酸化ナトリウム。水に触れると高熱を発し、強アルカリ性溶解液が呼吸回路の中に漏れ出し… え?海中にいるのに。
更に更に、酸素タンクの充填能力や気密性にも問題があり、規定量の酸素が入っていない事もままあり… (こうなってくると、酸素の純度も気になります)
 
いや、潜水具がもう少しまともだったとしても、移動手段は一切無く(海底を歩く!)、通信手段も一切無し(連携は不要?)。
帰還(浮上・脱出)手段は、あ、忘れてました状態…
 
一旦配置に就いたら、後は爆死か遭難、装置故障か酸素切れしか選択肢が無いという無茶苦茶さ。
 
海岸上陸が行われずに終戦を迎えたため、実戦投入こそされませんでしたが、訓練中に数十名ないし百名以上が殉職したと云われています(詳細は不明)。
 
 
ここまでくると、この発想自体理解不能ですが…
仮にこの発想を受け入れたとしても、上陸前には機雷・地雷を潰すために水際を徹底して爆撃するだろうとか、そういう冷静な判断は何処に行っちゃったのだろう…
 
その上この部隊の構想が生まれたのは、おそらく1945年の初頭。
3月に試作潜水具が完成、4月に実験を行い、6月から訓練が始まります。
 
前年9月にマリアナ諸島を失い、2月硫黄島、4月沖縄と戦線が近付き、3月に本土空襲が本格化。この時点で既に、思考がここまで追い詰められていた訳です。
 
かつて新田義貞を助けた龍神も、名前が「伏龍」だからと、こんな形で尊い犠牲を貰っても、只々困惑するだけという気がしてしまうのですが。
 
 
稲村ヶ崎を訪れた時は生憎のお天気でしたが、晴れていれば七里ヶ浜と江の島の向こうに富士山という、素敵な景色が広がります。
海はやはりのん気に眺めたり、磯遊びをしたりするのに限ります。
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いい加減このあたりでお話を切り上げれば良いものを、更に蛇足。
 
計画段階で終わったので詳細は未定だったのでしょうが、米(連合国)軍の本土侵攻には、個人的にかなりの無理を感じます。
 
上陸作戦といえば、何といっても「ノルマンディ上陸作戦」が広く知られています。
英仏海峡最短のパ・ドゥ・カレーの警戒が厳重なため、少し離れたノルマンディが上陸地点に。(東京湾を避け、千葉・茨城・神奈川?)
 
海岸線を確保した後、上陸地点には浮桟橋を中心とする仮設港!を設営。
シェルブール港確保までの補給拠点とします。
仮設港用の大量の資材は予め英国で建造、ノルマンディまで曳航して来ました。
 
 
上陸といえば、1950年の「仁川上陸作戦」も有名です。
こちらは第一目標が仁川港奪還。成功しさえすれば補給に問題はありません。
失敗した場合の補給云々は、退路の確保に限定されます。
 
2017年の仁川港。
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そして本土侵攻の場合。
第一段階の鹿児島・宮崎では、鹿児島港・宮崎港の利用を想定したと思われます。
特に鹿児島港は本州と沖縄、更には外地とを結ぶ大きな港でした。
 
2015年の鹿児島港、フェリーターミナル付近。
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しかし相模湾と九十九里浜、鹿島灘には地形の問題から大きな港がありません。
鹿島灘の鹿島港や茨城港は、確か建設技術が発達した戦後の築港だった筈。
九十九里浜と相模湾には、今でも大きな港はありません。
銚子漁港はありましたが、当時の規模では…
 
ならば仮設港の設営?でも、そんなものを建造可能な国、近くに見当たりません。
仮に設営に成功したとしても、浅い湾に速い潮、波の影響から機能したかどうか。
(実際「ノルマンディ」では設営した2基のうち1基は壊れ、放棄されています)
 
 
すると東京制圧まで補給無し? 一切補給無しでの制圧が可能?
だったらそんな派手な事、元からする必要無いのでは?
疑問がわらわらと湧いてしまうのでした(^^ゞ
 
 
この作戦を推したのが、かなりの政治好きで、相当に特異なキャラクタのため評価が分かれるこちらのお方、ダグラス・マッカーサーだったと知り、妙に納得してしまいました。
しかもこのお方、「この(俺の)作戦なら、東京まで10日でOK」と豪語していたとか。
ああ、それなら補給線は大した問題ではありません。
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彼はフィリピン担当だったため、(あちらには華々しく、こちらには苦い)「Iwo Jima」や「Okinawa」に関わりませんでした。
しかも「ノルマンディ」を指揮したのが、後の1953年に(彼には届かなかった)大統領に就任する、自分の元部下、ドワイト・D・アイゼンハワー。
 
「それなら俺はTokyo!」とか言い出しても不思議ではありません。
I shall return.」と名言を残した実績もあります。
東京は計画だけでしたが、彼は後に「仁川上陸作戦」を指揮し、ソウルに上陸します。
 
 
邪推がつい広がります。
彼は厚木に降り立ち、横浜を経由して東京に向かいます。
何だか上陸作戦ルートをなぞったようにも思えます。(だったら上陸用舟艇で江の島からのほうがよりリアル(^^ゞ
 
そして銚子沖が残存兵器の処分場になったり、茅ケ崎が演習場となり姥島(烏帽子岩)が砲撃で低くなったのまでが、彼の意趣返しではと疑いたくなり…
 
茅ヶ崎市の姥島(烏帽子岩)。
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邪推どころか妄想の領域に入りそうなので、ここまでにしたいと思います。