「イタリア・グランプリ」 モンツァの栄光と悲劇 | たかのブログ
この時期ブログ・ネタが無くて困ってるんですが、昨日
F-1イタリア・グランプリが終わりましたんでモンツァ・サーキット
に関するネタを…


F-1創生期からずっとイタリア・グランプリの舞台となってきたモンツァ。
1970年代あたりまでシーズン終盤、ここが終わると北米のカナダ、アメリカ
で終わりっていうスケジュールだったので、チャンピオンが決まる重要な
一戦でもありました。

1961年は「シャーク・ノーズ」と言われたフェラーリ156を駆るドイツ人
ウォルフガング・フォン・トリップス伯爵(正式には「ヴォルフガング・
アレクサンダー・アルベルト・エドゥアルト・マキシミリアン・
ライヒスグラーフ・ベルヘ・フォン・トリップス」だとか)とチーム・メイト
のアメリカ人フィル・ヒルの一騎打ち。
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伯爵33歳、しぶいです。

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「シャーク・ノーズ」フェラーリ・ディノ156を操る伯爵です。


この年のイタリア・グランプリはチャンピオン決定の一戦、伯爵がヒルを
4ポイント抑えて迎えた決勝レース。
伯爵のマシンは他車と接触し、パラボリカ・コーナー手前の観客席
に飛び込んでしまいます。伯爵はマシンから投げ出されて死亡。観客も
14名が犠牲になってしまう大惨事となってしまいました。

レースは続行され、ヒルが優勝しチャンピオンに。
レース後彼は人目も憚らず号泣していたとか。


悲劇の歴史は続きます。1970年は革新的なウエッジ・シェイプのニュー・
マシン、ロータス72を駆るオーストリア人「タイガー」ヨッヘン・リントの
独壇場。
第3戦のモナコを旧型の「49」で制した後、第5戦のオランダから第8戦の
ドイツまで「72」で4連勝。チャンピオンシップ・ポイントで2位以下を
大きく引き離して迎えた第10戦がモンツァのイタリアGP。
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ヨッヘン・リント28歳。親友ピアス・カレッジ(カレッジ・ビールの御曹司)
のレース中の事故死の悲しみの中のオランダGP表彰台です。

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革新的マシン、ロータス72.それまでのマシンはラジエーターが前部に装備され
「葉巻型」といわれるシルエットを持っていましたが、初めてラジエーターを
サイド・マウントとし、ノーズをくさび形とした現代のF-1のルーツとも
言うべきマシンです。


あと1勝でチャンピオン決定の一戦。最高速を増すためにリアウイングを
撤去して臨んだ予選。
またしてもパラボリカの入り口で姿勢を乱したリントのマシンはガード・レール
に激突。
喉と胸部にダメージを負ったリントは病院で死亡。

リントの死後、フェラーリのジャッキー・イクスがポイントを猛追しましたが、
結局リントのポイントを上回れず、リントは(今のところ)唯一人の「死後の
チャンピオン戴冠」となりました。

1973年、2輪でもモンツァの悲劇が起こります。
現代のライディング・スタイルを確立したといわれるフィンランド生まれの
伝説のライダー、ヤーノ・サーリネン(享年27)の事故死。
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サーリネンと同時に事故死したイタリア人レンツォ・パゾリーニのトリビュート
フィルムです。


1978年、またもやモンツアは悲劇の舞台となります。
空力の革命、グランド・エフェクト・マシン「79」でシーズンを席巻
していたロータス。
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「スーパー・スウェード」ロニー・ピーターソン34歳。豪快なドライビング・
スタイルで見るものを魅了しました。
この年ロニーはエース・ドライバー、マリオ・アンドレッティのサポート
に徹し、優勝1回、アンドレッティと12点差のポイント・ランキング2位で
迎えたイタリアGP.

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マシンはロータス79.最も美しいF-1マシンと思います。


決勝スタート直後の多重クラッシュに巻き込まれ、ロニーは脚に
重傷を負いますが、命には別状無しと思われていました。
しかし翌朝までに容態は急変、ロニーは帰らぬ人となってしまい。
この瞬間マリオ・アンドレッティのチャンピオンが決定したのでした。