レーシング・ドライバー墓碑銘in1969「福澤幸雄」 | たかのブログ
日本のモータースポーツは1963年に本田技研工業による鈴鹿サーキット
のオープンで創生期を迎えますが、自動車を所有すること自体が
ステータスであった当時、クルマで競争しようなんていう人は資産家や
芸能人、駐留アメリカ軍人や良家の子弟といった人達でした。

その「良家の子弟」達が後のトップドライバーに成長してゆくのですが…

例えば生沢 徹さんは生沢 朗画伯の子息、式場壮吉さんは式場病院の子息、
浮谷東次郎さんは外車輸入会社の社長の子息、そして福澤諭吉の曾孫にして
慶応義塾教授の子息の福澤幸雄さん。

彼らは自動車レースを通じて知り合ったのではなく、普段から飯倉のキャンティ
やホテルオークラのカメリアに入り浸っていた「親友」でした。

そんな当時の様子を生沢さんと式場さんが5:10あたりから語っておられ
ます。↓


幸雄さんは1943年、当時パリの日本大使館に勤務していた福澤進太郎氏と
ギリシャ人声楽家のアクリヴィさんの間に生まれ終戦と共に帰国。慶応義塾
法学部在学中にいすゞ自動車のファクトリー(契約)ドライバーとなり、
1966年からトヨタと契約し、68年の日本グランプリでは惜しくもリタイア
するまで2位を好走、同年アメリカの一流チーム&ドライバーを招聘して
行われた「日本CanAm」では日本人最上位の4位に入るなどトップクラスの
ドライバーでした。
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その生い立ちからフランス語、英語も堪能な幸雄さんの才能はレーシング
ドライバーのみならず、ファッションに関しても遺憾なく発揮され、
紳士服ブランドの"EDWARD'S"の取締役企画部長兼モデルも務めるなど
あこがれの的でもありました。

高校時代から交際があったとされるパリ在住のモデル松田和子さんとの
2ショットです。↓
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最初は仲のいい友達同士の交流の場であったモータースポーツは次第に
企業間の社運を賭けた戦いの様相を呈し、68年の日本グランプリで日産に
惨敗したトヨタにとって69年のグランプリは必勝を期して取り組まねば
なりませんでした。

そして…運命の69年2月12日、コース開きしたばかりの静岡袋井のヤマハ
テストコースで幸雄さんはクローズド・ボディの新型トヨタ7(セブン)の
テスト走行に臨みました。

8周目、ストレートでの高速度テストを終え高速の第一左コーナーに
さしかかった瞬間、マシンはコーナーと逆側の右に流れ、土中に埋められて
いた標識の支柱に激突。
幸雄さんは頭部に致命傷を受け25歳で還らぬ人となってしまいました。
(事故原因、本当の死因は今もって、そして永遠にわからないだろうと
思われます。)

テストコース外からの見学者が撮った事故現場の写真です。↓
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生前幸雄さんと交流のあった音楽家三保敬太郎さん(自身もモーター
スポーツに造詣が深く、幸雄さんとは中等部からの慶応の先輩・後輩の
間柄でもありました。)が幸雄さんを偲んで作ったアルバムの1曲、
「パリの想い出」をお聴きください。生前の幸雄さんと三保さん(もう
故人になられました)が楽しそうに会話されているのが収録されています。


また、交際があったとされる歌手の小川知子さんが幸雄さんの死から10日
あまり後の歌番組で泣きながら歌っておられたのをおぼろげに覚えています。↓


あまりにも惜しまれる死でありました。