今回の入院は、ここ半年から1年くらいの落ち着かない気持ちと改めて向き合った時間だったように思うよ。
実は今年に入ってから、ずっと丁々発止のような落ち着かなさを抱えててね。
去年までは、『いつか迎えるその時』をずっと遠いものと感じていたし、焦る気持ちもなかった。ただひたすらに『今出来ることをやろう』という気持ちだった。
だけど今年に入ってからは、『ようやく』『もう少しで』『そのはず』と、手が届きそうで届かない距離がひどく苦しくなった。
待機期間も5年を超え、色々と考慮した上で、そろそろ口をつぐむべき時期と考えたからSNSや配信活動をお休みしてたけど、私は何かを定期的にアウトプットしないと煮詰まるらしい。
だけど、それらをゆっくり自分の中に浸透させ、ろ過し、こそいでこそいで残ったものを発信するということを、ある意味『今の私にできること』としてこれまでやっていたから、そこに蓋をしたら途端に煮詰まって苦しくなってしまった。
『想いを伝えたい』『残したい』という気持ちが確固としてあるんだな。そういう自分がいることは知ってたけど、今回改めてそう感じた。
私が近頃とみに落ち着かなさを感じていたのは、発信をやめ、沈黙し、内省がうまく出来なくなっていたからなんだと思う。
でも仕方なかった。
沈黙するためには、自分の内側に巻き起こってるあれこれを吹きすさぶままにするしかなかった。
正直に言うね。
今か今かと
まだかなまだかなと
待ち望む自分がいるんよ。
そのことに後ろめたさを感じる自分と、それを望まずにはいられない自分が、これまでよりずっと色濃く私の中にいるんよ。
待ち望んでいいことなのか、それは口に出していいことなのか、というかそんなことを考えてしまうこと自体口にすべきではないのでは……と自問自答する自分がいるんよ。
この後ろめたさの正体は何か。
『ドナーコールを待つこと』=『誰かの死を待ち望むこと』?
いや、絶対に違う。
でも、心のどこかでそういう後ろめたさなのかもしれないと考えてしまう自分がいたことも否定できない。
けど違うんよ。
その正体を、
このもやもやを、
なんとか言葉にしたかった。
だから考え続けていたよ。
私が後ろめたさを感じていたのは、心臓移植を心待ちしていることではなくて、言葉にできない想いに蓋をしたことだったんだと思う。
それが『目を逸らすこと』のように思えてしまったから。
今、向き合わなくていいのか?
もっと考えなくちゃいけないんじゃないのか?
今の思いを残すべきなんじゃないのか?
『沈黙』はそうする必要があると自分で判断したからやっていたことだし、今はまだうまく形にできないから内にしまっておこうという気持ちもあった。
だから、その苦しい時間、考える時間、吹きすさぶ想いをそのままにする時間は確かに必要だったんだと思う。
その中で、今回ようやくその輪郭に触れたように思えたことを書き記すね。
託す想いの裏に確実にある大きな悲しみと、苦しみをはらんだ決断を受け止めた先で、自分は何が出来るか。それを考え続けて生きていきたい、生きていかなくちゃならない。
私が待ち望む未来は、何かを生み出すことなのだと思う。それは生命の誕生という意味ではなくて、例えば文字を使って綴ることや、音を使って話すことや歌うこと。そういうものなら生み出すことができるのではないか、残すことができるのではないか、と思った。
これはもう随分前から覚悟していることだけど、私はこの人生において自分の子供を産むことは難しいらしい。不可能ではないけど難しいことだと言われている。
時々とても寂しくなる。
そして甥っ子くんやダボくん、ヒメちゃん、家族、友人、周りの人を大切にしたい、大切にしよう、という思いが募る。
人は愛情を注ぐ対象を求めているものなんだろうな。
だから、めったに会えなくても、何年も顔を合わせてなくても、なんなら会ったことがなくとも、これまでに関わることのできた人達の幸せを祈るよ。
私自身がこれまで周りの人にそうしてもらって、何度も励まされ、支えられてここまで来れたから。
たぶん、この人生で私ができることはそういうことなんだろうと思う。
最後に報告になりますが、ドライブラインの感染入院10泊11日で、本日無事退院致しました。
ご心配ご迷惑おかけした皆さますみませんでした!そしていつも励ましてくれて本当にありがとうございます( ˃ ⌑ ˂ഃ )✨
今は一日千秋の想いと共に生きて、自分の役目を考え続け、その時間を大切にしたいと願うCCDでした。