終戦の日 次郎おじさんを偲ぶ
親戚の次郎おじさんは、江田島の海軍兵学校出身で、終戦前後は呉軍港にいました。海軍兵学校に入ることは当時、大変難しく、小学校・中学校で成績が特に優秀であること、そして身体が頑健であることが必須の条件でした。
(海軍兵学校 嶺次郎)
海軍兵学校では、練習用の軍艦に乗って訓練を受けました。しかし、練習用軍艦といえども、兵器や弾薬のスペースが最優先されるため、乗員の居住区は徹底的に削られていました。
そのためトイレの数も少なく、朝は順番待ちの行列ができたそうです。トイレに許される時間は1~2分ほどで、5~10分もトイレに入っている水兵は殴られたといいます。「早飯、早糞、早算用」が徹底して叩き込まれたそうです。
当時海軍の軍艦はほとんど撃沈され、呉軍港で任務に就いていた昭和20年8月6日午前8時15分、広島市に原子爆弾が投下されました。呉からもキノコ雲が見えたそうです。
おじさんたちの部隊は総出で広島市内の救出に向かったようで、そのとき目にした広島市内の凄惨な光景は、忘れられないものだったと聞いています。助け出した市民も多数いたようです。
終戦後は東京第一師範学校、東京理科大学を卒業し、東京都の公立小学校の教師となり、子どもたちに命の尊さを伝え続けました。その間、警視庁防犯部長賞、文京区教育功労賞を授けられ、都内小学校の校長を歴任し定年退職されました。
(校長時代 嶺次郎)
退職後は、東京都退職校長会の評議員・理事を歴任し、同会の千代田区・中央支部長も務めました。また、定年後には幼稚園の園長となり、若い幼稚園教諭たちに幼児教育の重要性を伝え、後進の育成にも力を注ぎました。
嶺次郎おじさんは、祖父・峯岸作十郎の妹・きみよと、仙台市長町の嶺廣吉が結婚し、その次男として生まれました。ですから私から見ると、4親等の親族である従伯父(じゅうはくふ)にあたります。
嶺廣吉は、第二師団騎兵第23連隊を経て陸軍准尉となり、勲八等瑞宝章を叙勲しました。また、大正天皇の天覧馬術の際には、天皇陛下から鞭を下賜されました。
(嶺廣吉)
嶺廣吉が農林省勤務時代、栃木県大田原町(大田原市)の栃木種馬所で、後の私の母・佐藤正枝を見初め、父・峯岸清兵衛との見合いを勧めたことがきっかけとなり、父母は結婚しました。母は仙台市土樋の玉屋食料品店の父のもとに嫁ぎました。
(母・佐藤正枝 宇都宮女子高等学校)
(栃木種馬所 嶺廣吉と嶺次郎)
(栃木種馬所と土橋商店 佐藤正枝と軍用犬)
(祖父・佐藤庄五郎 祖母・佐藤たけ 叔父・渡辺あつし黒磯町長 叔母・渡辺和子)
振り返ってみると、こうしたさまざまな縁がつながっていたのだと思うと、懐かしい気持ちになります。
(仙台市 玉屋食料品 父・峯岸清兵衛 母・峯岸正枝)
嶺次郎おじさんは幼少の頃から優秀で、終戦後、都内の小学校教師時代からも周囲に認められ、東京都千代田区の地主の娘さんと結婚し、その家の養子となりました。
終戦直後の混乱の中では、焼け野原となった東京の土地を不法に占拠され、かなりの土地を奪われてしまったそうで、大変な時代だったようです。
私が次郎おじさんの家に遊びに行った頃は、JR飯田橋駅のすぐ横の自宅に住んでいました。飯田橋の家から靖国神社が近かったこともあり、おじさんとよく歩いて靖国神社へ行きました。
歩くコースは、富士見二丁目の二号半坂を登り、九段中学校前を通って靖国神社へ向かいました。何度も一緒に参拝したことを覚えています。
神社では、手水の作法や口のすすぎ方なども教えてもらいました。今思うと、おじさんは太平洋戦争で亡くなった戦友たちに会いに行っていたのかな、と思います。
次郎おじさんは、ユーモアがありながらも厳しい人でした。
私がフラフラといい加減な言動をしていると、烈火のごとく怒鳴られました。でも、それは私のことを本気で考え、愛情の裏打ちがある叱り方だったのです。
私の書いた文章も、何度も何度も書き直して校正してくれ、文章の書き方の基本を教えてくれました。身も心も鍛えられ、人としての生き方を学び、多くの薫陶を受けました。
今、この歳になって思うと、私のことを本気で叱り、指導してくれた人として、次郎おじさんと父・清兵衛の二人が強く記憶に残っております。
次郎おじさんご夫妻が北海道旅行に来られたとき、私は自分の車で登別温泉や洞爺湖をご案内しました。それが、私にできた唯一の恩返しだったと思います。
(登別温泉 左・峯岸清兵衛 右・嶺次郎)
父・清兵衛や母・正枝にも、北海道の温泉地を車で案内することができました。ほんの小さな恩返しでしたが、親孝行ができて良かったと思っています。
私がいつか天国に行ったなら、次郎おじさんにも、父・清兵衛にも、母・正枝にも、そして私を愛してくれた猫たちにも会いたいと思います。
Netflix(ネットフリックス)で映画を自宅のテレビで観られる時代になりました。先日、太平洋戦争中の軍艦を描いた映画『雪風』を観ていて、ふと、次郎おじさんから聞いた昔の出来事が思い出されました。
(室蘭地球岬 峯岸清行 嶺次郎)
次郎おじさんが生きた時代、戦争を経験した人たちが背負っていたもの、そして私自身が幼い頃から受けた薫陶。その一つ一つを思い返すと、次郎おじさんは今も私の心の中に生き続けているのだと思います。
次郎おじさんや父を偲びながら、改めて人との縁の大切さを感じています。









