【汽笛の記憶 機関士の重み】

 

 北海道では、石炭と鉄道開発を目的として「北海道炭礦鉄道(北炭)」が明治22年(1889年)に創業し、明治25年(1892年)には室蘭(現・輪西)~岩見沢間に鉄道を開通させました。これ以降、室蘭港は空知地方などから産出される石炭の積み出し港として重要な役割を担うようになります。

明治27年(1894年)には海外向けの特別輸出港に指定され、明治28年(1895年)に室蘭港は石炭輸出量で北海道内第1位となりました。

 

国鉄・室蘭線は「炭鉄港」と呼ばれ、石炭・鉄道・鉄鋼・港湾が一体となって産業を発展させる、大動脈のような存在となりました。

1970年代前半まで、蒸気機関車が多くの石炭列車を牽引しており、岩見沢~室蘭間の室蘭線は急勾配が少ないことから、50両前後の貨車が連なる長大編成の列車が頻繁に行き交っていました。

 

全国の国鉄(日本国有鉄道)では、エネルギーの石油転換や電化の進展に伴い蒸気機関車の廃止が進められ、蒸気機関車が最後に運用されたのは昭和50年(1975年)12月14日です。この日、室蘭本線においてC57形蒸気機関車が客車を牽引する定期旅客列車の最後の運転を行い、北海道での蒸気機関車牽引による定期旅客運転が終了しました。

 

さらに、貨物列車としての日本最後の蒸気機関車運転は、旧夕張線で昭和50年(1975年)12月24日まで続きました。その後、構内入換や転車台作業などに従事していた機関車の最終運転が昭和51年(1976年)3月2日に行われ、これをもって国鉄における蒸気機関車の運用は完全に終了しました。

 

 この後の話は、かつて北海道胆振地方・室蘭で蒸気機関車の機関士を務めていた一人の老人から聞いた話です。

彼の生き様は、まさに国鉄の歴史そのものと言えるものでした。

 

 

同僚の機関士たちが休日の前夜に酒を酌み交わし、羽目を外す中でも、彼はほとんど酒を口にしませんでした。酒には強かったにもかかわらず、国鉄時代を通じて酒を飲む日は年に数えるほどしかなかったそうです。

それは、いつ何時、緊急の呼び出しがかかるか分からなかったからでした。他の機関士が酒を飲んで運転できない状況にあっても、彼は常に冷静でいられるよう自らを律し、いかなる要請にも応えられる準備を怠りませんでした。その結果、緊急時には常に彼が呼ばれ、人々の生活を支える鉄道の運行を守り続けたのです。

 

 

やがて国鉄合理化の波が押し寄せ、多くの職員が職を失う厳しい時代が訪れました。しかし彼は、その類まれな責任感と職務への献身が認められ、JRへと引き継がれて定年まで機関士として勤め上げることができました。

 

長い機関士人生の中で、彼は数多くの出来事に遭遇したと語っていました。中でも、彼の心に深く刻まれているのは、列車による不慮の事故の記憶でした。

 

 

戦後、経済が復興する以前は人々の暮らしも厳しく、鉄道人身事故が多発していたといいます。当時の蒸気機関車は制動距離が長く、事故を未然に防ぐことが困難な場合がほとんどでした。

彼は「どうしようもなかった」と、ぽつりと語りました。その言葉には、多くの命を預かって走る機関士としての重い責任と、救えなかった命への深い無念さが込められているように感じられました。

彼の語りは、単なる一鉄道員の体験談ではありません。激動の時代を生き抜き、人々の交通を支え続けた、一人の男の確かな記憶だったのです。 

 

 

北海道の面積は 83,422km² とされており、日本の国土全体の約 22% に相当します。これは、青森県・秋田県・岩手県・山形県・宮城県・福島県を合わせた面積よりも広いものです。

首都圏や関西では、雪が5センチ以上積もるだけでも交通インフラが麻痺し、旅客や物流が途絶える様子をニュースで目にすることがありました。

 

 

一方、北海道の自然災害や気候は非常に厳しく、雪や暴風雪の影響を受けながら、広大な地域にわたって鉄道、バス、消防、警察などのインフラを維持することは、本州に住む人々の想像以上に大変な事業です。

一晩で60センチから1メートルもの積雪がある路線も、決して珍しくありません。

人口減少により働き手が少なくなるなか、JRの線路維持管理や駅構内の除雪、破損した線路の復旧などを、限られた人員で何とかカバーしているのが現状だと思います。

 

 

東室蘭駅付近のJR北海道・室蘭保線所や、隣接する鷲別駅の機関区の方々が、暴風雪の中で除雪作業などに従事している姿を見たことがあります。

暴風のため体感気温はマイナス10℃以下と思われる厳しい環境の中で、顔や手足を凍えさせながら働く姿は、屋内での仕事しか知らない人には想像しがたい過酷さです。

 

 

これからの時代、インフラ作業者に理想論を求めることが難しい状況にあることを、私たち利用者も理解する必要があるかと思います。

時刻表通りの厳密な時間厳守を強く求めすぎず、利用者側にも一定の寛容さが求められるのではないかと感じました。