【北海道室蘭市艦砲射撃の惨劇 ダミー煙突作戦】 

 

 太平洋戦争の終わりが近づいた昭和20年7月15日、北海道室蘭市はアメリカ軍による艦砲射撃と空爆を受けました。

当時、戦艦などの主砲や副砲といった兵器を製造していた室蘭の日本製鋼所では、攻撃を受ける前に「ダミーの煙突」を建てて、アメリカ軍の攻撃に備えていた事を最近になって知り、とても興味深く感じました。 

 

(戦艦ミズーリ)

 

●20km先からの精密射撃

 20km以上も離れた海上の軍艦から、山あり谷ありの室蘭市内を正確に砲撃するのは、非常に難しいことです。

そこで上空の偵察機が着弾地点を確認し、例えば「着弾地点から北西500メートルに修正してください。」と軍艦へ指示を出していました。

 

(アメリカ艦載機)

 

戦艦大和の主砲は46センチ砲で射程距離42km。とはいえ、障害物のない海上でも42km先に命中させるのは至難の業です。地球は丸いので大和の測距儀(望遠鏡)で見えるのは25kmまでだったため、敵の上空に偵察機を飛ばし、着弾修正を繰り返してようやく命中させていました。

その為、戦艦大和も数機の水上偵察機を艦尾に搭載していました。

 

●戦艦の砲撃とダミー煙突の役割

 昭和20年7月15日午前9時36分。

ミズーリ号などの戦艦は地球岬の南東沖、約28kmの洋上から日本製鋼所への砲撃を開始しました。

16インチ(40.5センチ)の巨砲から放たれた、高さ170cm・重量1,255kgもの砲弾は、発射から約50秒で着弾しました。

 

(室蘭市民俗資料館に展示されている16インチ砲弾)

 

 日本製鋼所へは、わずか24分間で、414発が撃ち込まれました。このとき偵察機が狙っていたのは、日本製鋼所の敷地全体の工場群です。

もちろん、ダミーの煙突も含まれていました。

 

砲撃が始まると、日本製鋼所は煙突の周囲でバラックや麦わらを燃やし、前もって準備していた油に火を付け煙幕を張ります。まるで工場に大火災が発生したように見せかける巧妙なカモフラージュでした。

その結果、偵察機はこれを本当の被害と誤認し、24分後には攻撃目標を日本製鐵輪西製鉄所(日鉄)へ変更しました。

日鉄側はその後、より激しい砲撃を受けることになりました。

 

 

●被害とその影響

日本製鋼所では構内に64発、社宅に130発が着弾しました。

死者112人、重軽傷者88人。第4鍛錬工場は操業不能となりましたが、ダミー煙突と煙幕がなければ、被害はさらに甚大だったと考えられます。

 

午前10時からは日本製鐵輪西製鉄所(日鉄)への攻撃が始まり、446発が発射されました。

構内に173発、社宅に138発が着弾し、死者182人、重軽傷者52人。二号高炉や中央発電所、製鋼工場、工作工場が大きな損害を受けました。

 

 

10時30分に約30分間の砲撃が終わりました。

武器製造の日本製鋼所の24分間よりも砲撃時間が長かったのです。

この日、室蘭市は合計860発もの16インチ砲弾を浴びたのです。

 

 

●守れなかった室蘭防衛隊

 当時、室蘭市には日本陸軍の室蘭防衛隊が駐留し、臨時要塞を建設中でした。

第8独立警備隊は15cmカノン砲を持ち、港湾に接近する艦艇を牽制するはずでしたが、敵艦は港とは逆方向の南東(登別方面沖)から遠距離射撃を行ったため、全く無力でした。

 

●平和の象徴の裏側

 戦艦ミズーリ号といえば、日本の降伏文書調印式が行われた“歴史的な平和の舞台”として有名です。

しかし、戦時中の室蘭市民にとっては、その美名は受け入れがたいものでした。

昭和20年7月15日、戦艦ミズーリ号、アイオワ号、ウィスコンシン号、軽巡洋艦アトランタ、デイトン、駆逐艦8隻が室蘭市全域を砲撃し、485人以上の命を奪いました。

この非戦闘員への無差別攻撃は国際法違反でもありました。

 

(アメリカ艦載機)

 

米軍側の資料や『新室蘭市史』には、この日の朝、3隻の戦艦が地球岬沖から合計860発を撃ち込んだと記録されています。偵察機は上空から「目標は燃えている。素晴らしい砲撃だ!」と、まるでゲームのような交信をしていたそうです。

 

 

地上の工場群だけでなく、室蘭港内に停泊していた艦艇のほとんども、アメリカ艦載機の攻撃によって撃沈や大破などの被害を受けました。さらに住宅街への機銃掃射も激しく行われ、民間人を含む485人もの尊い命が奪われました。

 

(写真は昭和33年の室蘭港 昭和20年前後は不明)

 

 戦後、1955年から室蘭八幡宮では、戦没者を追悼する「招魂祭」が毎年行われてきました。しかし、遺族の高齢化と人数の減少により、2018年をもって中止されることになりました。私自身も、かつて高齢で体調の優れない方に頼まれ、その方のご兄弟が硫黄島で戦死されたというご遺族の代理として、2度ほど招魂祭に参列したことがあります。

 

 

 

現在は、追悼の場は「室蘭市文化センター」に移され、市主催による戦没者および艦砲射撃殉難者の追悼式が行われています。しかし、遺族会の会員はすでに数名となり、皆さん80代から90代と高齢になられています。

 

●戦争を二度と繰り返さないために

 当時、旧制室蘭中学2年の松山照氏(後の室蘭市社会福祉協議会長・市議会議長)は、この砲撃で父親を失いました。

松山氏が政治家を志した原点は、「この理不尽な戦争を二度と許さない!」という鎮魂の祈りだったといいます。

同じ思いを抱く人は、今も少なくありません。

 

室蘭に進駐した米軍司令官テーラー中佐は、市民へのメッセージ案で艦砲射撃を「戦争中の不幸な出来事」とし、遺憾の意を示そうとしていましたが、その文言は公式文書から削除されました。

戦争は、いつの時代も市民を巻き込み、多くの命を奪います。

「この悲劇を忘れず、二度と繰り返さない。」8月15日の終戦記念日は、そう強く感じた一日でした。

 

 

室蘭八幡宮 くじら神社)