【藩主・石川邦光の実弟・石川光親の墓参り 室蘭市崎守町仙海寺】
2025年4月、室蘭市崎守町モルエラン坂の元室蘭・仙海寺の墓地の、石川光親(いしかわ みつちか)の墓参りに行って来ました。
明治2年に今の宮城県角田市より、角田支藩(実禄3万3千石)藩主・石川邦光(いしかわ くにみつ)が少数の家臣と室蘭に着きました。
藩士と家族のすべて3000人以上を連れて室蘭村に移住する事は不可能な事でした。
江戸時代から北前船が蝦夷地と本州を頻繁に往復し貿易しており、松浦武四郎や最上徳内など様々な人物により調査が行われて、室蘭の面積・地形や気候・産業なども有る程度わかっていたのです。
4000年以上前の縄文時代から、青森から函館へ縄文人たちが丸木舟で渡り、本州と北海道の道具や土器などの交換をし文化的な交流が続いてました。
それにより明治元年ころの室蘭は人口が300~500名の貧しい漁師の浜だけで、近隣の伊達村や登別村よりも格段に土地が狭く、湿地帯・沼地で農業に適した平地面積も無く、リアス式海岸と崖に囲まれていました。
つまり食料が生産できなく自給できませんでした。
(絵の左下側は海です。今は埋立てられ工場です)
戊辰戦争の戦費で経済破綻をきたしている石川藩主にとって、3000人以上の大大的な室蘭への移住は、家臣やその家族を餓死させる事になったからなのです。
それを石川邦光は室蘭に来て見極めて、角田市に戻りました。
(モルエラン坂と仙海寺 2年前の写真)
明治はじめの室蘭村は崎守町や陣屋あたりが中心街でした。
当時は漁師の波止場として小さなにぎわいがあり、宿屋、小売商などもあり、モルエラン坂は函館から室蘭~苫小牧~札幌の重要な道路・拠点でした。
この『モルエラン』の地名が『ムロラン』という村の名前の由来となります。
(元室蘭・仙海寺 2年前の写真)
現在の五洋建設や楢崎製作所はその当時は海で、埋め立てして工場が出来ているのです。
それで崎守町を「元室蘭」とし、本当の室蘭と呼んでいる訳です。
元室蘭・仙海寺の墓地は、現在は寂しい所と思いますが、当時は一等地に位置するお墓だったと思います。
(仙海寺 お借りした写真)
(明治時代中頃と思われる室蘭港 モルエラン・崎守町からは離れた位置)
藩主・石川邦光に室蘭開拓を命じられたのが家臣の添田龍吉、添田鱗太郎、泉、滝口など屈強な若者でした。
(石川邦光の家臣 添田龍吉)
当初移住者は戸数44戸の51人で、婦女はそのうち5人でした。
明治4年、角田より家族22人が移ってきたので、男58人、女15人の73名になりました。
その精神的な支柱となったのが藩主・石川邦光の実弟・石川光親(13歳)で、自ら室蘭入りを申し出たのでした。
石川光親(みつちか)は開拓団の家臣たちを励まし、慶応大学に進み明治9年に卒業、各地の小学校教師を勤めたあと明治14年に室蘭に戻りました。
添田龍吉など家臣団は私費で学校を作り、アイヌの子供たちにも学校で学ばせておりました。とても教育を大事にしました。
室蘭市の開拓に大きく貢献し、天皇陛下より藍綬褒章を授勲しました。
大正7年(1918年)に逝去されました。
今回の墓参りは、明治初年の室蘭開拓の祖を教えて貰い、50年も室蘭に住みながら知らなかった歴史に触れる事ができました。
歴史に詳しい室蘭地方史研究会の平井氏や室蘭の生き字引と言われる村田氏、角田支藩の藩主・石川邦光の家臣の子孫である滝口紘子氏に同行して頂き、お墓参りが出来た事は大変有難いことでした。
(石川光親の婦人のお墓)
同行した詳しい方によりますと、石川光親の子孫は東京で会社経営をしており社長さんだそうです。
(墓石裏面には来歴などの漢文がありました)
【仙台本藩と支藩について】
宮城県に生まれ育った私ですが、仙台本藩や支藩の事は詳しく分かりませんでした。本を読む時間や調べる時間の余裕が出来てから正しく理解ができました。
それで、たとえばの例として、本藩と支藩の関係を分かり易く説明します。(内容は例え話なので正確なものでは有りません)
宮城県の中に仙台市があります。それが仙台本藩です。
宮城県の中に角田市や白石市・亘理町があります。それぞれが支藩です。
(仙台藩 青葉城)
仙台本藩と支藩を合わせたものが仙台藩なのです。
その総兵力は35000人と云われております。
東京都には千代田区に皇居があります。千代田区が本藩です。本藩の殿様が伊達政宗です。
東京都に23区があります。その区が支藩です。
23区には区長がいます。その区長が支藩の殿様です。藩主の石川邦光や片倉景範です。
支藩は本藩の周りで、伊達政宗を防御している訳です。
仙台藩の11の区長には序列があり順位が決まってました。
区長には一門の11家が有りました。
仙台藩本家(伊達政宗)との血縁関係にある支藩の藩主です。
角田支藩の藩主・石川昭光は11家の筆頭で一番偉かったのです。
隣り町の伊達村に移住した亘理支藩の伊達邦成は序列が二番目で、角田支藩・石川昭光の格下でした。
滝口信喜道議、滝口紘子市議のご先祖は一門 11家の一門筆頭の石川昭光で知られる石川氏の家臣です。
東北は古代より南側から攻め込まれていました。
ですから宮城県の南側の角田市(角田支藩3万3千石、藩主・石川邦光)や白石市(白石支藩13万石、藩主・片倉景範や俳優・大泉洋で有名)など最強の軍団を福島県寄りに配置した訳です。
角田支藩や白石支藩は戊辰戦争で仙台藩の中でも死力を尽くして戦い、官軍に多大な損害を与えました。その為に面積の狭い農業に向かない土地を与えられたのです。
伊達という氏名は宮城県内には沢山の方がおり、お笑いコンビ・サンドウィッチマンの伊達みきお氏も有名です。
(以下の写真は室蘭市史より抜粋しました)
室蘭の明治から大正にかけての発展は、角田支藩からの入植と、添田龍吉をはじめとする家臣や家族の方々の尽力によるところも大きかったのでしょうね。熊や獣が徘徊し、食料も乏しく、電気もガスも無く、荒地ばかりの厳しい開拓の時代を乗り越え、現在の室蘭の礎を築かれた先人たちの苦労は、想像を絶するものだったでしょう。そのご苦労を思うと、感慨深いものがあります。