古代史や歴史に興味が有りまして、磯田道史さん(1970年~ 歴史学者 日本近世・近代史・日本社会経済史 国際日本文化研究センター教授 岡山県岡山市出身)に学ぶことが多いです。

磯田さんの言葉で、『歴史は転ばぬ先の杖、歴史は安全靴、知る事は自分の資産となり豊かさとなる、歴史は似たような事が繰り返し韻を踏み起きる、自分の祖先を知る事から他人様の歴史や他国の歴史を学ぶことになり、広い視野の世界観につながり戦争などの争いごとを避ける基礎となる。』が印象的です。

 祖先が何処から来たかを紐解いてみました。

 

§1. 母方の遺伝子検査結果、私のミトコンドリアハプログループはAグループ (A)でした。 このグループは、約3万~2万年前ロシアのバイカル湖周辺で誕生したグループで、日本人の約7%が属しており、朝鮮半島、中国中央~東北、中国南部を移動し日本に入ってきたと考えられます。 

 

旧石器時代のシベリアでは、優れた狩猟技術を持つ人々によりマンモス猟が行われていたことが知られており、Aグループはこの狩猟民の末裔だと考えられています。

日本に入ってきたグループは、マンモスを追いながら朝鮮半島を一直線に南下し、縄文時代に日本に到達したと言われており、日本でも比較的古い部類のハプログループです。 

 

§2. 父方の判定結果、父方のY染色体ハプログループは 0グループでした。 

世界では東アジアから東南アジアに至る幅広い地域に分布しており、アジア人を代表するY染色体ハプログループと言えます。

 

日本国内の分布を見ると、北部と南部には少なく、本州にやや多い傾向が見られるようです。

およそ4,000年前に日本列島全体に拡がっていったと考えられることから、弥生人に由来するY染色体であると考えられています。

これらの事から父方の祖先は中国南部のY染色体ハプログループは 0グループで、今から2000年前くらいに朝鮮半島から日本列島に渡って来たものと考えられます。 

 

 

§3.峯岸家の祖先は、江戸時代に秋田県より宮城県に移動したと言われています。

 宮城県地図を見ますと、宮城県は岩手県・秋田県・山形県・福島県の四方に接して囲まれており、隣の秋田県から歩いて移住した事は自然に感じます。

 

 (宮城県仙台市長町と角田市)

 

宮城県地図 角田市と丸森町の旗巻峠古戦場)

 

秋田から辿り着いた所は、現在の住所では宮城県角田江尻峯岸のあたりです。

江尻の熊野堂の辺りに住んでいました。

 

(角田市区分図 江尻


(角田市江尻 峯岸

 

角田市史を見ますと江戸時代に角田江尻峯岸屋敷が4軒ありました。

峯岸屋敷の名前から武士だと思われますが、ここから先祖が『峯岸(みねきし)』の名前を貰ったと言われています。 ここで農業を営み住まいしました。

角田江尻に峯岸屋敷4軒あり、そのうちの1軒と婚姻関係が有れば親戚関係となります。

 

(室蘭市立図書館蔵 角田市史

 

(角田市史 峯岸屋敷

 

峯岸屋敷 四軒 みねきしやしき)

 

§4.角田市より仙台市長町に移転する

 江戸時代に角田市江尻より仙台市太白区長町に移動しました。

江戸時代の地名は奥州陸前国名取郡茂ケ崎村長町(おうしゅう、りくぜんのくに、なとりぐん、もがさきむら、ながまち) 

幕末から明治時代となり廃藩置県で

宮城県名取郡茂ケ崎村長町となりました。 

その後

宮城県仙台市長町となり

現在は

宮城県仙台市太白区長町、と地名が変更されて落ち着いています。

 

4-1 幕末の峯岸家

江戸時代後期の先祖の話では、この(仙台市)長町で農業を営みながら剣術や柔術に励み、武器を携え馬も所有していました。 当時仙台藩に多額の寄付金を収めて苗字帯刀を許されていたようです。

この事から、幕末には足軽半百姓(農兵)という身分だったと考えられます。

 

(写真は江戸時代から峯岸家に残る羽織袴

 

慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、先祖は槍や刀などの武器を持ち、福島県と宮城県の県境の丸森町に位置する『旗巻峠(はたまきとうげ)』で薩長軍(新政府軍)と戦いました。その結果敗退し、雨降る夜に槍を杖にして仙台市長町の家に帰って来たと伝えられています。戊辰戦争では仙台藩兵は1260名戦死しました。この戦いに使われた武器は宮城県の親戚宅に保管されています。先祖は戊辰戦争の生き残りです。

 

そのご先祖様は明治初期に亡くなり、仙台市根岸崇禅寺の墓に眠り、戒名は居士(昔は武士に限って付ける戒名)です。崇禅寺は伊達政宗以前の粟野氏の菩提寺古刹で、500年以上の歴史が有り、江戸時代や明治時代初期に、由緒あり格式のある崇禅寺が居士の戒名を付けているので(当時の戒名は厳格であった)、当時のご先祖様が旗巻峠で仙台藩の兵士として戦ったのは間違いない事と思います。

 

§5.長町より仙台市土樋に移転する。

 昭和初期に仙台市長町の田畑を売却し、仙台市土樋240番地に移動しました。

玉屋食料品店を営み、味噌・醤油を中心に食料品を販売していました。

 

(仙台市土樋 玉屋食料品店)

 

昭和20年終戦となり、販売する食料品の仕入れが難しくなり、父の代で漬物製造業の玉屋漬物店として営業しました。

行政区の変更で現在は仙台市若林区土樋240番地となりました。

製造した漬物は製造元として、藤崎デパートスーパーマーケットへ直接卸し販売しました。

仙台市若林区霞目に新たに土地を購入し、工場を建設し、漬物を増産して販路を広げました。

 

§5.清行の代で室蘭市に移住

 大手設計事務所勤務後に室蘭で設計事務所(有)新鉄構エンジニアリングを設立し、代表取締役として造船設計と構造物や機械の設計を主な業務としました。

楢崎造船と楢崎製作所が主な取引先になり25名体制で営業し、譲渡して現在に至ります。

現在、楢崎造船は函館ドックと合併して名前が無くなりましたが、楢崎製作所は崎守町で営業を継続しております。

 

陸奥国仙台藩領地と家臣団)