【大阪プロレス編2007年~2014年】
2007年大阪プロレスは常設会場を立ち退かなければいけないという大ピンチに陥っていた。 社長であるデルフィンさんは八方尽くして新しい会場を探していた訳やが。
なかなか目ぼしい会場が見つからなかったんかなぁ?
常設会場って設備投資に莫大な費用がかかるし、あとは家賃もかかるし、場所だって何処でもええ訳ちゃうしな。
デルフィンさんも考えに考え出した答えは…そう大阪プロレスを身売りするという選択やった。2007年のお話。
1999年に旗揚げした大阪プロレス。 その8年後には身売りする事になる。
しかしその8年間を振り返ってみると…テレビ中継が始まり、常設会場ができたり、大阪城ホールへ進出したりと…ホンマに凄いと思うわ。
それはやはりスペルデルフィンの功績が非常に大きいやろう。しかし世の中不景気って言うのももちろんあるし、ジャンルとしてプロレスの位置というか立場が微妙になって来てたよね? エンターテイメントとか娯楽って言うのが溢れかえってるもんね。
今やパソコンや携帯で何でも観れるしね。とにかくこの時期プロレス界の落ち込みようは半端なかったように思える。 そんな中デルフィンさんは暗中模索しながらよく頑張ったと思う。
頭も凄い切れる人で。日本プロレス界初の株式公開にチャレンジしたり、何とかプロレス界を大阪プロレスを盛り上げようとしてた。
株式公開を残念ながら断念しそれから会社を身売りする事に 。まぁあくまで前向きな選択だと思うな。 やっぱりプロレスラー兼社長というのは限界あると思うし。
特にこんな不景気で厳しい世の中やろ やっぱり経営のプロフェッショナル。プロレスラーではなく。ホンマにビジネスの最先端にいて。
この不景気な世の中に対応しうるホンマもんの経営者に団体の未来を託したほうがいいのではないかと。デルフィンさん本人もそう言ってはったしな。
そこで新しく大阪プロレスのオーナーとして。来られたのか阪上雄司現会長やった。
2007年の8月から大阪プロレスは阪上会長がオーナーとなり指揮をとるコトになった。
2007年 9月 新今宮フェスティバルゲートからミナミに常設会場を移し新しいスタートを切った。最初はそれなりに大勢のお客さんで賑わっていたが。
だんだんと集客も落ち着いてきてた。 それでも一時期の大量離脱から考えると大阪プロレスはメンバーも増えてリング上の闘いも充実してきてたんちゃうかな? お笑いとされる闘いも。松山勘十郎の登場で一転賑やかになった。
その頃の大阪プロレスは翌年に開催された大阪ハリケーン2008に向けて一丸となっていたのだか…。
あれは2007年くらいだったかな? 大阪プロレスの支店?というニュアンスなのか…。 沖縄にも常設会場を作り。
大阪プロレスから何人か派遣され?沖縄プロレスとして活動して行くプランが持ち上がっていた。沖縄プロレスはあくまで、大阪プロレスの沖縄支部?とワシは認識していた。
沖縄に行く気はあったかって?やっぱりそこで浮かんだのは勿論家族やけど…その頃でだいたい10年近く大阪プロレスに所属してたし。
最初はビジネスとしてくいしんぼう仮面を演じてた訳やけど… さすがに10年近くやってると愛着がわくもんな。
だから沖縄に行く気は正直なかった。2008年で思い出に残ってる出来事はやはり初代えべっさんこと菊タローとの再会やろ。
約3年ぶりに大阪プロレスのリングではなく健介オフィスさんのリングで実現した。
聞くところによると北斗晶さんがくいえべの絡み観たかったらしく何回もオファーをいただいてたんやが…なかなかタイミングが合わず、ようやくこの日実現に至った訳。
その日のマッチメークは菊タロー&田上明VSくいしんぼう仮面&なまずマンというとんでもないカードやった。
およそ3年ぶりの菊タローとの対戦やったんやが…何の違和感もなく普通に試合ができた。そう3年のブランクは何一つ感じなかったな。
やはりワシと彼の絡みは何年ブランクがあろうが錆びる事がない大阪が誇る伝統芸能という事なんやろ…3年ぶりのくいえべ対決の試合後印象に残っとるんは、何と休憩中売店でまぁ本人が直接来た訳ちゃうけど…その日観戦に来られていた志村けんさんがワシのタオルを購入してくれた(笑)
そんな事もあり?この日はグッズが飛ぶように売れたな。
そして売店でどんくさいワシを見かねて北斗晶さん自らが手伝いを名乗り出てくれて、更に売れた。そんな事も含め3年ぶりのくいえべ対決は最高な1日となったんや。
1999年4月に旗揚げした大阪プロレスがまもなく10周年を迎えようとしていた。
毎年旗揚げされた4月29日には周年興行をやっていたんやけど…今回のメインは何と、くいしんぼう仮面VS初代えべっさん。
裁くレフェリーは松井さん。あのねぇ~今でこそ普通に組まれても何ひとつおかしくないカードだよ。
しかし当時はホンマ大変やってん。大阪プロレスでえべっさんを6年間務めた菊ちゃんなんやけど…辞めてからは菊タローとして4年間頑張ってきてた訳や。
それが急に1日だけえべっさんやってくれって言われてもな~しかし大阪プロレスの10年間を振り返ったら…やはりこのカードやねんな。
それはワシもそう思う。最初に打診した時彼の答えは勿論ノーの返事。
ワシは何回も何回もお願いしたわ…決め手になったのは、その日がくいしんぼう仮面の10周年だと言う事。
そうや…最高のライバルであるえべっさんが大阪プロレスを離れてもワシはずっと、くいしんぼう仮面をやり続けた。
それを労う意味でオファーを最終的にオッケーしてくれた。そしてもう一人の松井さん。
松井さんとの交渉?は本当に難航を極めたんや。
大阪プロレスはスペル・デルフィンが創った団体なのは間違いないけど、松井さんが動かしてと言うても過言ではない。それほど大阪プロレスには思い入れや熱意もあった人なんや。
だからどんな想いを持って大阪プロレスから去ったのかは想像出来てしまうねんな。
そんな松井さんにまた大阪プロレスのリングでレフェリーやって下さいとお願いするワシって?電話で何回もお願いし何回も断られた。
当時ワシかなりしつこかったと思うで~?最後はワシ東京までお願いしに行ってん。
さすがの松井さんも根負けしてやな~[わかったよ!出るよ!]本当にあの時は松井さんありがとうございました。今だに感謝しています!
さぁ役者は揃っていざ大阪プロレス10周年。くいしんぼう仮面10周年。
2009年4月29日IMPホール大会へ。
ワシにとって一生忘れられない思い出となった。2005年に松井さんはDDTさんへ。
菊ちゃんはフリーになり全日本プロレスさんに参戦。ワシは大阪プロレスに留まった。
10年間くいしんぼう仮面もやり続けたワシを祝福する意味でこの日二人は来てくれんや。
大阪プロレス10周年記念興行
メインイベント
くいしんぼう仮面VS初代えべっさん。
レフェリー松井幸則
自分の中ではこのメンバーでやる試合がベストやねんな。
お客さんもそう思ってると思う。だからこの日は幸せな空間に囲まれた素晴らしい興行だった。そしてこの日初めて試合後マイクで喋った。
松井さんと菊ちゃんにお礼が言いたかったから、そして何よりこの日会場に来てくれたお客さんにワシの肉声でお礼が言いたかった。
う~ん…マイクがすべってたな(笑)覚えてるのが横に居た菊ちゃんがクスクス笑ってたな。
この日の心境を今振り返ると長州力さんの言葉を拝借させていただいて…俺の人生一回くらいこんな日があってもいいだろう!とそんな感じだった。
正直2005年の大量離脱以降ワシ自身パッとしない時期が続いたけどやはりこの仕事はやり続けていればご褒美があるんだよな。
毎試合黙々と自分の仕事を自分の役割をこなしていけば必ず報われるとワシは今でも信じとるわ。
ワシの自叙伝で書くにあたってテッド田辺さん(以下テッドさん)の事を忘れたらアカンやろう。プロレスファンであるワシは勿論学生時代からテッドさんの存在は知ってた。
何せ大好きだったみちのくプロレスでレフェリーされてたからね。
ワシが業界に入ってお会いしたのは、1999年3月みちのくプロレス徳島大会やった。
ワシは素顔での参戦。当時は全く無名の(今もかな?)新人だったワシにテッドさんはとても気さくに話掛けてくれた。
試合後も熱心にアドバイスしていただいた。その時のテッドさんはまさに多団体男として?様々な団体でレフェリーされてて…だからとても緊張した記憶があるよ。
それから何年か経って、テッドさんと大阪プロレスで再会した。
確か2006年くらいだったかな?昔話に花を咲かせつつすぐ意気投合したよ。印象に残ってる会話として
テッド[俺最初はくいしんぼう仮面とえべっさんのくいえべ対決全然認めてなくて…あんなのプロレスじゃない!っ全否定してたんだよ]
ワシ [えっ?]
テッド[でもカミさんにさぁ一回観てみてよって言われて実際観に行ったら。これもプロレスだよなぁ。実際にお客さんが支持してるからこれもアリだなと思ったんだよ]
ワシ [いやいや?そんな恐縮しますよ]
ワシはテッドさんに認めてもらったみたいでめっちゃ嬉かったな~。
テッドさんは他の選手やスタッフにも気配りされてて、ホンマに皆に愛されていた。
ワシからしたらテッドさんは業界の大先輩であり、そして仕事に関してもとてもリスペクトできる方だった。
しばらくしてから…
テッド[俺の最後の場所は大阪プロレスだよ。大阪プロレスでやって行きたいと思ってるんだけど、どう思う?]
ワシ [テッドさんが来てくれるんは大歓迎ですよ!!ホンマに頼もしいですよ]
確かこんな会話が交わされたかな?それから正式にテッドさんは大阪プロレスの一員になった。
テッドさんという強力な仲間が入ってさぁこれからという時期に…2009年6月14日。
大阪プロレスタッグフェスティバル公式戦の試合を裁き終えてテッドさんは意識不明になった。
突然の出来事にホンマに頭の中が真っ白になった。
当時の常設会場のミナミムーヴオン・アリーナの前で心臓マッサージを施す若手選手。
横で[帰って来い!]と叫ぶタイガースマスク。壮絶な現場…
[何で?何でこんな事に?]それからテッドさんは救急車で近くの病院に搬送された…どうしたらいいか分からないまま立ち尽くすしかなかった…がワシは次の現場である大阪府立体育館で行われたドラディション大阪大会に向かった。
確か菊ちゃん(菊タロー)とタッグで試合したんやけど…試合の記憶は全くない。
試合後菊ちゃんが[てっつぁんのとこ行って元気出してもらおや!]の一言が凄い嬉かった!
そやねんな。諦めたらアカンねんな。
それから菊ちゃんと搬送された病院へ。会長をはじめほぼ全選手。
全スタッフが集合していた。それから順番でテッドさんがいる病室に声を出し励ましに…
テッドさんは意識はなかったが…ワシらは声を掛けたら戻って来てくれると信じていた。
その声掛けは翌朝6時まで続いた…意識は戻らなかったが…とりあえず峠は越したとお医者さんから説明され、一旦は解散した。
少し安心した。みんなの願いが通じたんやなきっと。
それからワシは自宅で仮眠した。しかしその日の昼過ぎに電話が鳴り、テッドさんが亡くなっと報告を受けた…病院へまた戻り、最後にテッドさんの奥さんから[皆様本当にありがとうございました]と言われた時はもう堪えきれなくなって号泣した…みんなも…テッドさんと過ごした時間はホンマに楽しかったし貴重やなと思う。
今の自分を観てテッドさんなら何て言うのかな?なんて気にはなる。
そう…ワシは何かある度にテッドさんに相談しに行ってたから。テッドさん天国で見守って下さいね。
2008年に大阪プロレスから沖縄プロレスに行くメンバーが離脱したり。
2009年にはテッドさんの死。ミナミに常設会場を移した大阪プロレスだが明るい状況ではなかった。
2010年に入ってギャラティーの一部もカットされた。
これはねぇ~もうしょうがない。確かにお客さんも入ってなかったし。
何より大勢の選手。スタッフを抱えてたし。それから毎月200万円超の家賃。
他経費諸々…いったいいくら掛かってたんやろか?会社も譲歩してくれてカットされた金額分のチケットを毎月支給してくれた。
これが一部選手間で話題になった生活チケット(笑)噂やけど、誰かは生活チケットでコンビニで買い物したとかしないとか(笑)まさに仮想通貨?(笑)
アカン脱線したな…でも当時はしんどかったな~自業自得なんやけど、生活レベル高かったからな~?家賃が10万オーバーのデザイナーズマンション住んでたし。
後何より車な(笑)当時出たばかりのクラウンハイブリットのローンが…
もう一軒マンション借りれるくらいのローンが(笑)まぁ全然たいした事ないけど屋台村プロレスからスタートした人間にしては大出世ちゃいますか(笑)
だから今振り返ったら毎月給料出るだけ有りがたい限りなのよ。
ワシの場合な、他の選手は知らんよ。生活レベルさえ上げなかったら全然生活できる給料はもらってたから。
でもやっぱり夢見てたんかなぁ(笑)何故かこの時期は外出る時は常にスーツ(笑)何か目指してたのか?何処かに向かいたかったのかな?宇宙とか(笑)2010年にはあと思い出される出来事としては常設会場での自主興行。
その名も[くいしんぼう仮面自己満足興行]。こちらは圧倒的に安い経費で興行させてもろたな。翌年も数回開催したが…やはりジリ貧に…当時は月曜以外はほぼ毎日試合してたな。
それで試合後には営業活動。
営業活動ではチケットの他に自分のグッズ売って生活の足しにしてたっけ。
自分の生活チケット売ったり、あとその頃は1ヶ月に一回もしくは2ヶ月に一回のペースで800人規模のIMPホールでビックマッチを開催してたから。
頑張ってチケット売り歩いてた。今にしてたらよく働いたなと思うけど…限界だったのかもね。毎日の試合。ビックマッチに向けての営業活動。
ワシ自身で言うたら…自業自得な生活レベルの向上(笑)通常の業務にプラスして…生活の為に?自主興行を乱発。連日夜の街でチケットと一緒にグッズを売り歩く。
別名どさ回り営業(笑)最後のほうは自分自身何をやってるのか分からなくなってきてたよ。ただ毎日の試合はキツかったけど…今にして思えば幸せな事だったんちゃうかな?今振り返っても楽しかったもん。それが出来る環境があったのってホンマに恵まれてると思う。それで毎月のまとまった給料。
今はまとまってない現金を必死で毎月拾い集める作業やもんな。どこで歯車狂ったんやろか?2013年5月からワシ自身はフリーになった。
理由?実はその年の3月だったかな?会社のほうにフリーを打診されたんや。
正直不安だった。その頃の大阪プロレスは活動の場所をミナミからキタに移して間もない時だったし。選手も何人か抜けてたし。
ただ自分自身不安だったのは…食って行けるかなぁ?って事やった。色々悩んだ末にフリーになる事にした。同時に副業的にBarをオープンした。
フリーって説明が足りないよね?つまり月給でもらってた固定給が1試合いくらになるという訳やね。
1999年から2013年までほとんどプロレス以外の仕事をする機会が無かったからBarでの仕事は新鮮ではあったけど過酷だった。
まぁ毎日ベロンベロンになるまで率先して飲んでたワシが悪いんやけどな(笑)くいしんぼう仮面のBarをするに当たって支援してくれた方々。
そして来客していただいたお客さんにはホンマに感謝しています。ありがとうございました。
しばらくはBarとプロレスの二足のわらじで活動していたんやけど2014年4月にはキタの常設会場ナスキーホールも閉鎖され、選手もワシ。ツバサさん。タコヤキーダー。スパイダーJr.以外は全員離脱した。
翌2015年にはBarのほうも辞めて…私…恥ずかしながら帰ってまいりました(笑)そうプロレス村の世界に(笑)今大阪プロレスは元大阪プロレスにいたガンマ選手が頑張って立て直してくれている。
そして大阪プロレスから離れて行った選手もみんな頑張っている。
やっぱりワシ自身屋台村プロレスから始まったキャリアやけど…大阪プロレスには一番長くいた訳で、何よりそこで過ごした時間。
そしてそこで出会った人達は自分のとっては最高の財産やと思うてる。
2014年から先輩レスラーであるマグニチュード岸和田さんと合同興行を定期的に開催するようになった。あとは昔からのご縁と言うか人の繋がりで色々な団体のリングに上げていただいている。もうひとつはリングの無いプロレスにも新たに挑戦した。どれも今は楽しくやらせてもらっている。まぁ全ては飯食うためとか言うたら味気ないかも知らんけど…
ワシはワシでどれも大真面目に取り組んでる。
だってプロレスが好きだから。
ホンマにプロレスは楽しいよ。