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生き様インタビュー冨宅飛駈編009話

冨宅:試合が無い日や指導が無い日はお金になりませんから、給料が一気に減りましたね。
試合がある時でも20万に満たない給料で。

くい:厳しいですね…。

冨宅:他団体から試合のお話しをいただいたりして出場しましたが、大阪在住なので限られていたんですよ。
東京から呼ばれても交通費が掛かりますからね。

くい:はい。

冨宅:その当時、田村(潔司)さんがSTYLE-Eをやりだして出場したいと思っていたんですよ。
(※田村潔司が創設した格闘技ジムU-FILE
CAMPが主催する、総合格闘技大会【U-FILE】、プロレス大会【STYLE-E】は月1回の割合で定期的に興行を行っている。
現在は行われていないが、UWFルールに準じた【U-STYLE】でも一戦を交えている。)
ちょうど契約更新の時期で、パンクラスの事務所に行く機会がありまして東京まで行きました。
鈴木(みのる)さんもいて、鈴木さんが新日本に上がる話しがあってパンクラスから出場というのはちょっとスタイル的に違うだろうと。
くい:なるほど。

冨宅:プロレスも総合もやりますよ、という パンクラスとは違う「別部門」を設立することになりました。

くい:それが、パンクラスMISSION(プロレス部門)なんですね。

冨宅:はい。ちょうどSTYLE-Eにも出たいと思っていたので、MISSIONのお話しは良い機会でした。
パンクラスMISSION設立にあたり、まず鈴木さんが会見を開き、新日本への出場を表明しました。

くい:はい。

冨宅:6月に大阪で田村さんと対戦する話しが決まり、僕が2人目のパンクラスMISSION所属選手としての出場を表明しました。

冨宅:パンクラスMISSION(プロレス部門)所属となり、田村(潔司)さんのSTYLE-Eに出場したりしましたが
STYLE-Eも頻繁に試合があるわけではないので。
試合のない日は道場での指導料しかありませんから、関西在住なんで関西で上がれる団体で
当時は闘龍門と大阪プロレスに交渉してもらえるように事務所に頼んだのですが話も進まなくて。

くい:はい。

冨宅:そんな時に、たまたまパンクラス大阪道場にスポーツニッポンの記者の方が。
元々プロレス担当の記者の方だったんですが担当を離れていたのがまたプロレス記者担当として戻られたらしく、
ご挨拶に来て下さいまして。

くい:その記者の方のご縁で大阪プロレスに?

冨宅:はい。たまたま次の日、その記者の方が大阪プロレス・デルフィンさんの取材をされるということで
デルフィンさんに直接話をして下さったんですよ。
それですぐにデルフィンさんOK出ましたと、わざわざまた道場に来て下さって。

くい:へぇ~~~。

冨宅:すぐに事務所にも連絡して、そこから話がトントン拍子に進みました。
最初、デルフィンさんは僕が大阪のリングに上がるのは単発でと思われてたみたいなんですが。
ご挨拶に伺ってお話しする上で継続参戦させていただくに至ったんです。

くい:2004年くらいでしたかね?
【※冨宅選手大阪プロ初参戦は03年9月15日IMPホール大会にて、vs福田ユタカ(現:ユタカ)5分35秒、チキンウィング・フェースロックで勝利。】

冨宅:当時、僕が35、6歳くらいでしたから。
くいしんぼうさんともすぐに試合が組まれて。
あの試合くいしんぼう仮面デビュー10周年記念DVDにも収録されてるんですよね?見ましたよ(笑)

くい:あの試合は僕の中でも思い入れのある試合です(笑)
【冨宅選手大阪第2戦は03年9月27日大阪・デルフィンアリーナにてvsくいしんぼう仮面。4分58秒、チキンウィング・フェイスロックにて勝利。】

※その後、ブラック・バファロー、ゴア、的場真人と試合を重ねる。初代えべっさん(現:菊タロー)とはU.W.F.ルールで戦うなど会場を沸かせた。

冨宅:初参戦の年の大阪プロレスでの試合は村浜(武洋)さんで終わって。

くい:大阪プロレスでは一番スタイル的に冨宅さんに近かった存在でしたね。

冨宅:村浜さんは、上手かったですね。

【03年11月24日東京・後楽園ホールにてvs村浜武洋。大阪プロレス選手権試合が行われた。8分15秒、ブレーンバスターからの片エビ固めで敗れるも村浜選手同じく、冨宅選手の大阪プロレス参戦はスタイル的には一見
水と油かに思えても融合する様々な可能性を感じさせてくれた。】

冨宅:僕が大阪プロレスに参戦させていただいて
03年11月の後楽園で村浜選手と戦って以来、次に大阪に参戦させていただくまでブランクがあったんで心配してたんですが。
年が明けた04年1月からオファーをいただいて正直安心しましたよ(笑)

くい:はい(笑)

冨宅:05年4月からは毎週レギュラー参戦させていただいて。

くい:あの年は選手の(2回目の)大量離脱もありました。

つづく…!!