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生き様インタビュー冨宅飛駈編008話
くい:それから合宿所ができたんですか?
冨宅:船木さんの知り合いだった尾崎(允実・まさみ/ワールドパンクラスクリエイト社長を08年5月まで務めた。)さんに今後を相談してたんです。
尾崎さんに会社をやっていただけないかという話しで。
くい:尾崎さんは当時何をされている方だったんですか?
冨宅:芸能プロダクションの社長でしたね。
くい:そうなんですか。旗揚げは93年9月でしたよね?92年12月に藤原組を離脱してからパンクラス旗揚げまで
収入面はどうしていたのですか?(ワールドパンクラスクリエイト:93年9月21日東京ベイNKホールにて旗揚げ戦。)
冨宅:もう、ゼロですよね。その頃の貯金を食い潰す形で。
冨宅:尾崎さんが社長を引き受けてくださり、赤坂に事務所を構えたり、道場開きもあったりで
パンクラス旗揚げまでトントン拍子に進んで行きました。
くい:旗揚げしてから給料の面も詳細が決まったのですか?
冨宅:そうですね。僕は月30万いただいてたんです。
くい:はい。
冨宅:鈴木(みのる)さんが尾崎社長に月50万という数字を打診したそうなんですが、それを基準にして他の選手の給料も振り分けられたんです。
くい:月1回の興行で50万という給料も会社的にはしんどかったんじゃないんですか?
冨宅:今考えたらそうですよね。よくやってくれてましたよね。
くい:でも、お客様は入ってましたもんね。
冨宅:入ってましたね。グッズの売り上げだけでも凄かったみたいですよ。あの当時からしたらデザインも斬新でしたし。
くい:ですよね!
冨宅:生地も良かったですし、基本はプロレス会場以外でも着用できるお洒落なものをコンセプトにデザイナーの方に考えていただいて
生地も選んでもらって。
くい:それだけグッズが売れていたら、給料以外に各選手にグッズ収入などはあったんですか?
冨宅:それはないですね。でも、当時パイオニアからビデオとレーザーディスクが発売されていたんです。
その販売促進会で、名古屋や大阪で何度か店頭イベントがあった時にパイオニアから1日10万のギャラが出ました。
くい:うわ~景気の良い話ですね!(笑)
冨宅:新幹線のチケットもホテルの宿泊費も全て向こう持ちで。副収入といえばこんな感じです。
くい:ビデオの印税などはどうだったんですか?
冨宅:それはないですね。それがあったのはUWFだけですね。(※第199号 冨宅飛駆編その7 参照)
パンクラスのビデオもかなり売れたと思うんですが(笑)
くい:そうですよね(笑)冨宅さんは旗揚げ戦は?
冨宅:ヴァーノン“タイガー”ホワイトとやりましたね。
あの頃はまだ向こうの経験値が浅かったこともあり、結果的には早々と勝利できたんですが。
(初代パンクラス無差別級キング・オブ・パンクラシストであるケン・シャムロック主宰のライオンズ・デン所属のヤングファイターで
初期パンクラスでは常連外国人選手だった。冨宅祐輔VSヴァーノン“タイガー”ホワイト 1分19秒 腕ひしぎ十字固めで冨宅選手の勝利。)
くい:はい。当時、秒殺という言葉が流行するほどでしたね。
冨宅:選手は意識はしていなかったんですよ。
ただ、当時のスタイルでは各選手怪我が絶えなくて。潰し合いをしていたら興行として成り立たない現状に気を揉んでいましたね。
くい:難しいですね。
くい:冨宅さんから見たパンクラスのピークってどれくらいなんですか?
冨宅:旗揚げして2~3年くらいじゃないですかね。
外国人選手の台頭や若い選手も増えて来たりとかしながら、僕個人で言うなら勝敗もトントンになってきて…
結局みんな怪我でどんどん欠場して行くんですよ。僕も怪我をして。
くい:どこを怪我されたんですか?
冨宅:肘です。元々悪かったんですが、悪化して手術することになりました。
くい:はい。
冨宅:怪我から復帰後は初期の頃のルールが(30分1本勝負。1エスケープ=1ダウン=1ポイント/ダウン、ロープエスケープ合わせて5回でTKO負け。)
少しずつ変更され、1/10(分)になって決着がつかなかったら延長3分で判定になりました。
その後、オープンフィンガーグローブを着用するようになったり、ラウンド制になったりで。
他団体から選手が参戦してくることも多くなり、階級整備もあり、徐々にルールも変わって行きましたね。
くい:手術して入院している期間というのは、普通にお給料が出るんですか?
冨宅:はい、出ます。会社が全部、治療費とかも。会社で保険に加入していたので。
くい:給料自体は年々上がって行ったりするものなんですか?
冨宅:給料はそのままです。グローブつけて闘っていた時まで給料は一緒でした。
(パンクラスではPANCRASE 2003 HYBRID TOUR 星野勇二戦 ~5分2R終了 判定0-3で敗戦~03年2月16日以降、総合の試合からは遠ざかっている。後にパンクラスMISSION所属となる。)
くい:その時期はヤル気の面ではいかがでしたか?
冨宅:選手も増えていましたし、負けが込んできたら焦っている自分がいましたね。結果を残さなければと思うんですが勝てなくて悩みました。
引退も考えましたよ。興行の目玉になるような試合もしてないですし…。
くい:スランプは選手なら誰しも経験しますよね…。
ご結婚されたのはいつ頃ですか?
冨宅:パンクラス旗揚げしてすぐです。入籍したのは旗揚げした年なんですが、翌年結婚式を挙げて。その翌年には子供が生まれました。
その後離婚も経験しましたけどね。
※その後、03年9月から大阪プロレスに参戦。試合スタイルが違う大阪のリングに上がることで格闘家としてだけでなく、プロレスラーとしての経験値を上げた。ユニーク且つシリアス
様々な試合スタイルを難なくこなし、唯一無二の冨宅ワールドには選手も観客も圧倒されている!?
くい:何年ほど結婚生活をされていたんですか?
冨宅:7~8年くらいですか。
くい:言いづらいかと思いますが、離婚の理由というのは・・・?
冨宅:大まかに言うとしんどいっていう(苦笑)試合に集中したいという気持ちも強くて。
お金のことを言われたり・・・給料もそんな簡単には上がらないじゃないですか?家庭を持つと色々物入りになりますしお金のことで揉めましたね。
くい:精神的に仕事の面でもプライベートの面でも大変な時期だったんじゃないですか?
冨宅:そうですね。誰しも色々あって、それを我慢して続けて行くのが結婚生活なんですけど。
色々な経験をして今なら受け入れられたんでしょうけど。その当時は器の小さい人間やったと思いますよ。
くい:そんなことは。そういう時期は誰しもありますよね。
冨宅:結局、離婚を切り出してからも話し合いは平行線で。
あちらも子供を連れて実家に帰ったり、僕は僕で道場に泊まったりしてたんで顔を合わす時間もあまり持たなくなっていて。
今考えたら小さなことなのかも知れないですけど、ゴチャゴチャ考えて悶々とした時期でしたね。
くい:はい。
冨宅:何ヶ月かして離婚には応じてくれましたが、慰謝料や養育費がまた莫大な額を言ってくるわけですよ(苦笑)
芸能人やないんやからそんなん払えるわけないやろって感じなんですが、結局お金なんですよね。
その後、お金の面でずっと平行線で・・・家庭裁判所の調停の申し立てをするに至りました。
くい:そうですか。大変でしたね。
冨宅:その時期、大阪にパンクラスの道場が出来て。大阪に行く話しがありました。
まだ調停の件もありましたから。妥協案を会社に呑んでいただく形で、大阪と東京半々で行ったり来たりの生活だったんです。
最終的には調停も成立し、離婚に至りました。
くい:はい。
冨宅:その時期、僕は足首を怪我して手術をして復帰に向けて調整していたんです。
試合は迫っているし、離婚の手続きや引越しもあってめちゃくちゃバタバタしてましたね。
くい:そうですよね。全てお一人で準備をするわけですから大変でしたね。
息子さんは今お幾つですか?ご家族とも連絡を取り合っていますか?
冨宅:息子は16です。高校1年ですね。養育費や息子へのお小遣いを振り込む際に家族には連絡していますね。
今は嫁からはほとんど連絡はないですが。息子からは返事が来ます。
離婚した当時息子は幼稚園の年長組みでした。別れてからも月に1回息子と会ってましたし。離婚してからの方が嫁とも普通に会話が出来るようになってましたね。
くい:はい。
冨宅:その後、僕は完全に大阪道場へ。ですから大阪に引っ越しました。
月に1度息子と会うためだけに東京に行く感じでしたね。
くい:大阪道場が出来て、完全に帰阪された当時もパンクラスでの給料は当初の月30万の設定だったんですか?
冨宅:パンクラスMISSION(プロレス部門)が出来る前の年…総合をやっていた後半の年なんですが(03年)
給与体制が変わりまして。月給制じゃなくなったんです。
くい:え~~。
冨宅:1試合につき、いくらという感じで。道場での指導料も1日につき、いくら。もう完全出来高制になりました。
くい:はい。
つづく…!!
生き様インタビュー冨宅飛駈編008話
くい:それから合宿所ができたんですか?
冨宅:船木さんの知り合いだった尾崎(允実・まさみ/ワールドパンクラスクリエイト社長を08年5月まで務めた。)さんに今後を相談してたんです。
尾崎さんに会社をやっていただけないかという話しで。
くい:尾崎さんは当時何をされている方だったんですか?
冨宅:芸能プロダクションの社長でしたね。
くい:そうなんですか。旗揚げは93年9月でしたよね?92年12月に藤原組を離脱してからパンクラス旗揚げまで
収入面はどうしていたのですか?(ワールドパンクラスクリエイト:93年9月21日東京ベイNKホールにて旗揚げ戦。)
冨宅:もう、ゼロですよね。その頃の貯金を食い潰す形で。
冨宅:尾崎さんが社長を引き受けてくださり、赤坂に事務所を構えたり、道場開きもあったりで
パンクラス旗揚げまでトントン拍子に進んで行きました。
くい:旗揚げしてから給料の面も詳細が決まったのですか?
冨宅:そうですね。僕は月30万いただいてたんです。
くい:はい。
冨宅:鈴木(みのる)さんが尾崎社長に月50万という数字を打診したそうなんですが、それを基準にして他の選手の給料も振り分けられたんです。
くい:月1回の興行で50万という給料も会社的にはしんどかったんじゃないんですか?
冨宅:今考えたらそうですよね。よくやってくれてましたよね。
くい:でも、お客様は入ってましたもんね。
冨宅:入ってましたね。グッズの売り上げだけでも凄かったみたいですよ。あの当時からしたらデザインも斬新でしたし。
くい:ですよね!
冨宅:生地も良かったですし、基本はプロレス会場以外でも着用できるお洒落なものをコンセプトにデザイナーの方に考えていただいて
生地も選んでもらって。
くい:それだけグッズが売れていたら、給料以外に各選手にグッズ収入などはあったんですか?
冨宅:それはないですね。でも、当時パイオニアからビデオとレーザーディスクが発売されていたんです。
その販売促進会で、名古屋や大阪で何度か店頭イベントがあった時にパイオニアから1日10万のギャラが出ました。
くい:うわ~景気の良い話ですね!(笑)
冨宅:新幹線のチケットもホテルの宿泊費も全て向こう持ちで。副収入といえばこんな感じです。
くい:ビデオの印税などはどうだったんですか?
冨宅:それはないですね。それがあったのはUWFだけですね。(※第199号 冨宅飛駆編その7 参照)
パンクラスのビデオもかなり売れたと思うんですが(笑)
くい:そうですよね(笑)冨宅さんは旗揚げ戦は?
冨宅:ヴァーノン“タイガー”ホワイトとやりましたね。
あの頃はまだ向こうの経験値が浅かったこともあり、結果的には早々と勝利できたんですが。
(初代パンクラス無差別級キング・オブ・パンクラシストであるケン・シャムロック主宰のライオンズ・デン所属のヤングファイターで
初期パンクラスでは常連外国人選手だった。冨宅祐輔VSヴァーノン“タイガー”ホワイト 1分19秒 腕ひしぎ十字固めで冨宅選手の勝利。)
くい:はい。当時、秒殺という言葉が流行するほどでしたね。
冨宅:選手は意識はしていなかったんですよ。
ただ、当時のスタイルでは各選手怪我が絶えなくて。潰し合いをしていたら興行として成り立たない現状に気を揉んでいましたね。
くい:難しいですね。
くい:冨宅さんから見たパンクラスのピークってどれくらいなんですか?
冨宅:旗揚げして2~3年くらいじゃないですかね。
外国人選手の台頭や若い選手も増えて来たりとかしながら、僕個人で言うなら勝敗もトントンになってきて…
結局みんな怪我でどんどん欠場して行くんですよ。僕も怪我をして。
くい:どこを怪我されたんですか?
冨宅:肘です。元々悪かったんですが、悪化して手術することになりました。
くい:はい。
冨宅:怪我から復帰後は初期の頃のルールが(30分1本勝負。1エスケープ=1ダウン=1ポイント/ダウン、ロープエスケープ合わせて5回でTKO負け。)
少しずつ変更され、1/10(分)になって決着がつかなかったら延長3分で判定になりました。
その後、オープンフィンガーグローブを着用するようになったり、ラウンド制になったりで。
他団体から選手が参戦してくることも多くなり、階級整備もあり、徐々にルールも変わって行きましたね。
くい:手術して入院している期間というのは、普通にお給料が出るんですか?
冨宅:はい、出ます。会社が全部、治療費とかも。会社で保険に加入していたので。
くい:給料自体は年々上がって行ったりするものなんですか?
冨宅:給料はそのままです。グローブつけて闘っていた時まで給料は一緒でした。
(パンクラスではPANCRASE 2003 HYBRID TOUR 星野勇二戦 ~5分2R終了 判定0-3で敗戦~03年2月16日以降、総合の試合からは遠ざかっている。後にパンクラスMISSION所属となる。)
くい:その時期はヤル気の面ではいかがでしたか?
冨宅:選手も増えていましたし、負けが込んできたら焦っている自分がいましたね。結果を残さなければと思うんですが勝てなくて悩みました。
引退も考えましたよ。興行の目玉になるような試合もしてないですし…。
くい:スランプは選手なら誰しも経験しますよね…。
ご結婚されたのはいつ頃ですか?
冨宅:パンクラス旗揚げしてすぐです。入籍したのは旗揚げした年なんですが、翌年結婚式を挙げて。その翌年には子供が生まれました。
その後離婚も経験しましたけどね。
※その後、03年9月から大阪プロレスに参戦。試合スタイルが違う大阪のリングに上がることで格闘家としてだけでなく、プロレスラーとしての経験値を上げた。ユニーク且つシリアス
様々な試合スタイルを難なくこなし、唯一無二の冨宅ワールドには選手も観客も圧倒されている!?
くい:何年ほど結婚生活をされていたんですか?
冨宅:7~8年くらいですか。
くい:言いづらいかと思いますが、離婚の理由というのは・・・?
冨宅:大まかに言うとしんどいっていう(苦笑)試合に集中したいという気持ちも強くて。
お金のことを言われたり・・・給料もそんな簡単には上がらないじゃないですか?家庭を持つと色々物入りになりますしお金のことで揉めましたね。
くい:精神的に仕事の面でもプライベートの面でも大変な時期だったんじゃないですか?
冨宅:そうですね。誰しも色々あって、それを我慢して続けて行くのが結婚生活なんですけど。
色々な経験をして今なら受け入れられたんでしょうけど。その当時は器の小さい人間やったと思いますよ。
くい:そんなことは。そういう時期は誰しもありますよね。
冨宅:結局、離婚を切り出してからも話し合いは平行線で。
あちらも子供を連れて実家に帰ったり、僕は僕で道場に泊まったりしてたんで顔を合わす時間もあまり持たなくなっていて。
今考えたら小さなことなのかも知れないですけど、ゴチャゴチャ考えて悶々とした時期でしたね。
くい:はい。
冨宅:何ヶ月かして離婚には応じてくれましたが、慰謝料や養育費がまた莫大な額を言ってくるわけですよ(苦笑)
芸能人やないんやからそんなん払えるわけないやろって感じなんですが、結局お金なんですよね。
その後、お金の面でずっと平行線で・・・家庭裁判所の調停の申し立てをするに至りました。
くい:そうですか。大変でしたね。
冨宅:その時期、大阪にパンクラスの道場が出来て。大阪に行く話しがありました。
まだ調停の件もありましたから。妥協案を会社に呑んでいただく形で、大阪と東京半々で行ったり来たりの生活だったんです。
最終的には調停も成立し、離婚に至りました。
くい:はい。
冨宅:その時期、僕は足首を怪我して手術をして復帰に向けて調整していたんです。
試合は迫っているし、離婚の手続きや引越しもあってめちゃくちゃバタバタしてましたね。
くい:そうですよね。全てお一人で準備をするわけですから大変でしたね。
息子さんは今お幾つですか?ご家族とも連絡を取り合っていますか?
冨宅:息子は16です。高校1年ですね。養育費や息子へのお小遣いを振り込む際に家族には連絡していますね。
今は嫁からはほとんど連絡はないですが。息子からは返事が来ます。
離婚した当時息子は幼稚園の年長組みでした。別れてからも月に1回息子と会ってましたし。離婚してからの方が嫁とも普通に会話が出来るようになってましたね。
くい:はい。
冨宅:その後、僕は完全に大阪道場へ。ですから大阪に引っ越しました。
月に1度息子と会うためだけに東京に行く感じでしたね。
くい:大阪道場が出来て、完全に帰阪された当時もパンクラスでの給料は当初の月30万の設定だったんですか?
冨宅:パンクラスMISSION(プロレス部門)が出来る前の年…総合をやっていた後半の年なんですが(03年)
給与体制が変わりまして。月給制じゃなくなったんです。
くい:え~~。
冨宅:1試合につき、いくらという感じで。道場での指導料も1日につき、いくら。もう完全出来高制になりました。
くい:はい。
つづく…!!