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生き様インタビュー冨宅飛駈編007話
冨宅:あの頃はよく食べていて、一食でだいたい7,8千円は掛かっていたので。
後輩にも小遣い1万円とか・・・僕も上の人から貰って来たのもあって、下にもやらなきゃいけない意識がありました。
くい:えーーー。
冨宅:それに、僕はずっと船木さんに車で送り迎えしていただいてて、それも申し訳なく思い原付を買ったんですが
(住んでいた)世田谷から(道場のあった)足立区まで通勤に一時間半くらい掛かってたんです。
くい:毎日キツイですよねぇ。
冨宅:ある日、藤原さんが「オマエ、車は何に興味がある?」っておっしゃられて。
当時、トヨタのMR2がかっこよくていつか買えるのなら買いたいと思ってたんです。
(MR2:トヨタ自動車が84年から99年まで生産。4気筒エンジン搭載のミッドシップスポーツカー。)
そういう話しをして、一週間後くらいに道場にMR2が(笑)
くい:うわー
冨宅:メガネスーパー名義の車だったんですが。とりあえず社長宛にお礼の手紙を書いて、ありがたく乗せていただきました。
くい:藤原組には結局何年くらい所属されてたんですか?
冨宅:2年くらいですかね。
【91年1月末から藤原組の道場で練習を開始。91年3月4日藤原組旗揚げ戦。92年10月には東京ドーム大会も開催。
92年12月に船木誠勝、鈴木みのる、高橋和生(現:義生→SRC本部道場ヘッドコーチ。)、柳澤龍志(坂口征二設立の坂口道場所属。)
当時練習生だった稲垣一成(現:克臣→パンクラス稲垣組代表。)、國奥道明(現:麒樹真・読み・きうま)と共に藤原組を離脱。
後にパンクラスを旗揚げするに至る。】
くい:藤原組に入った頃っていうのは映画のような話しというか。現実離れしてますよね。
冨宅:でも、あの頃の感覚だったら・・・プロレスとかこういう業界ってこんな凄いものなんだなっていうものがありましたね。
やっぱり普通の人とは感覚が違うというか。
くい:そういう経験をされているだけ凄いなと思いますよ。
冨宅:パンクラスになってしばらくまでは、プロレスラーだし良い車に乗ってって感覚はありましたから(笑)
くい:はい(笑)試合の話しになりますが、冨宅さんは異種格闘技戦もご経験されてますよね。
冨宅:そうですね。藤原組時代には(91年7月26日)東京ベイNKホールで。
くい:タイの選手でしたよね。結果はどうでしたか?(vsラウィ・ナ・パタヤ)
冨宅:結局、5ラウンドまで行ったんで、判定なしのドローでしたね。
向こうは、ムエタイをやっている選手なんで試合運びも上手いんですよ。
くい:話しは変わりますが、安生(洋二)さんが、チャンプア・ゲッソンリットとやった試合ありましたね。
(U-COSMOS:UWFが89年11月29日に東京ドームで開催した大会にて。)
冨宅:安生さんはやっぱり強いですよ。
くい:あのルールじゃ勝てないですよね。
(固め技、投げ技を恐れての作戦か、ロープブレイクも考慮し、ゲッソンリットは終始ロープ際やロープ伝いの試合展開だった。
相手側の要求から安生は短期間でウエイトを15kgも絞って臨んだ苦しい試合。
しかし、立ち技専門の相手と堂々と渡り合うほど技術の高さを見せ付ける内容に、藤原組長を始め同志達からも絶賛された試合だった。)
冨宅:今の総合格闘技とはまた違いますし、昔の異種格闘技戦ですから。
くい:あの頃は、刺激を受ける試合が多くありましたね。90年4月15日博多スターレーンでの船木さんvs鈴木さんとか。
(互いにレガースをつけずに臨んだ試合。一進一退の攻防の中、8分53秒ヒールホールドで船木の勝利。)
冨宅:はい。
くい:藤原組が(92年10月4日)東京ドームで行った試合も刺激を受けました。
僕はあの頃高校2年生でしたが、修学旅行で東京に行ってまして自由時間に試合を観戦してたんです(笑)
残念ながら、集合時間の関係もあって全ては観れませんでしたが。
冨宅:そうですか(笑)
くい:聞いた話によると、ビリー(ケン・キッド)さんも松井(幸則・レフェリー)さんも観戦してたらしいです。
冨宅:松井さんはかなり藤原組ファンだったらしいですね。
くい:そうみたいですね。
冨宅:船木さんとスミス戦とかもやっぱり凄かったですよ。
(当時、世界最強のキックボクサーだったモーリス・スミスは、92年4月にフランスでピーター・アーツに敗れるまで8年間無敗を誇っていた。
そのスミスを相手に船木は5ラウンドを戦い抜いた。)
くい:藤原組は(91年3月4日)旗揚げから、翌年10月には東京ドーム大会、それから間もなく解散に至るわけですが。
冨宅:赤字が続いていたので、今後は興行も増やして行くという話しも聞いていましたし選手達も反対はしていなかったんです。
その頃、船木さんと鈴木さんは藤原さんとの間で(方向性の違いもあってか)ほとんど会話がない状態で溝が広がっていました。(後に和解)
それに加えて、当時居た関係者がチケット代を横領していた件も藤原さんの知るところとなり重たい空気が流れていました。
くい:はい。
冨宅:藤原さんが、こんなまとまりのない団体なら解散だと。
くい:はい。石川(雄規)さん以外は離脱しますね。
冨宅:解散という流れになってから、選手同士集まっては今後について、その時は石川も一緒にミーティングをしていたんですよ。
結局、藤原さんに誘われたということもあり石川は残留しました。
船木さんと鈴木さんと僕以外は当時合宿所生活をしていたので、離脱すると住む所がなくなりますよね。
くい:はい。どうなったんですか?
冨宅:高橋和生(現:義生→SRC本部道場ヘッドコーチ。)は実家が千葉にあり戻ることになりました。
柳澤龍志(坂口征二設立の坂口道場所属。)、稲垣一成(現:克臣→パンクラス稲垣組代表。)、國奥道明(現:麒樹真・読み・きうま)は
船木さんと鈴木さんと僕の所にあみだくじでどこに住むのか決めることに(笑)
くい:ははは(笑)誰がどこに住むのか3人ともドキドキしたでしょうね(笑)
冨宅:柳沢は船木さんの所へ行くことになり、稲垣は鈴木さん、國奥は僕の所へ。
結局、2ヶ月くらい一緒に暮らしましたね。
つづく…!!
生き様インタビュー冨宅飛駈編007話
冨宅:あの頃はよく食べていて、一食でだいたい7,8千円は掛かっていたので。
後輩にも小遣い1万円とか・・・僕も上の人から貰って来たのもあって、下にもやらなきゃいけない意識がありました。
くい:えーーー。
冨宅:それに、僕はずっと船木さんに車で送り迎えしていただいてて、それも申し訳なく思い原付を買ったんですが
(住んでいた)世田谷から(道場のあった)足立区まで通勤に一時間半くらい掛かってたんです。
くい:毎日キツイですよねぇ。
冨宅:ある日、藤原さんが「オマエ、車は何に興味がある?」っておっしゃられて。
当時、トヨタのMR2がかっこよくていつか買えるのなら買いたいと思ってたんです。
(MR2:トヨタ自動車が84年から99年まで生産。4気筒エンジン搭載のミッドシップスポーツカー。)
そういう話しをして、一週間後くらいに道場にMR2が(笑)
くい:うわー
冨宅:メガネスーパー名義の車だったんですが。とりあえず社長宛にお礼の手紙を書いて、ありがたく乗せていただきました。
くい:藤原組には結局何年くらい所属されてたんですか?
冨宅:2年くらいですかね。
【91年1月末から藤原組の道場で練習を開始。91年3月4日藤原組旗揚げ戦。92年10月には東京ドーム大会も開催。
92年12月に船木誠勝、鈴木みのる、高橋和生(現:義生→SRC本部道場ヘッドコーチ。)、柳澤龍志(坂口征二設立の坂口道場所属。)
当時練習生だった稲垣一成(現:克臣→パンクラス稲垣組代表。)、國奥道明(現:麒樹真・読み・きうま)と共に藤原組を離脱。
後にパンクラスを旗揚げするに至る。】
くい:藤原組に入った頃っていうのは映画のような話しというか。現実離れしてますよね。
冨宅:でも、あの頃の感覚だったら・・・プロレスとかこういう業界ってこんな凄いものなんだなっていうものがありましたね。
やっぱり普通の人とは感覚が違うというか。
くい:そういう経験をされているだけ凄いなと思いますよ。
冨宅:パンクラスになってしばらくまでは、プロレスラーだし良い車に乗ってって感覚はありましたから(笑)
くい:はい(笑)試合の話しになりますが、冨宅さんは異種格闘技戦もご経験されてますよね。
冨宅:そうですね。藤原組時代には(91年7月26日)東京ベイNKホールで。
くい:タイの選手でしたよね。結果はどうでしたか?(vsラウィ・ナ・パタヤ)
冨宅:結局、5ラウンドまで行ったんで、判定なしのドローでしたね。
向こうは、ムエタイをやっている選手なんで試合運びも上手いんですよ。
くい:話しは変わりますが、安生(洋二)さんが、チャンプア・ゲッソンリットとやった試合ありましたね。
(U-COSMOS:UWFが89年11月29日に東京ドームで開催した大会にて。)
冨宅:安生さんはやっぱり強いですよ。
くい:あのルールじゃ勝てないですよね。
(固め技、投げ技を恐れての作戦か、ロープブレイクも考慮し、ゲッソンリットは終始ロープ際やロープ伝いの試合展開だった。
相手側の要求から安生は短期間でウエイトを15kgも絞って臨んだ苦しい試合。
しかし、立ち技専門の相手と堂々と渡り合うほど技術の高さを見せ付ける内容に、藤原組長を始め同志達からも絶賛された試合だった。)
冨宅:今の総合格闘技とはまた違いますし、昔の異種格闘技戦ですから。
くい:あの頃は、刺激を受ける試合が多くありましたね。90年4月15日博多スターレーンでの船木さんvs鈴木さんとか。
(互いにレガースをつけずに臨んだ試合。一進一退の攻防の中、8分53秒ヒールホールドで船木の勝利。)
冨宅:はい。
くい:藤原組が(92年10月4日)東京ドームで行った試合も刺激を受けました。
僕はあの頃高校2年生でしたが、修学旅行で東京に行ってまして自由時間に試合を観戦してたんです(笑)
残念ながら、集合時間の関係もあって全ては観れませんでしたが。
冨宅:そうですか(笑)
くい:聞いた話によると、ビリー(ケン・キッド)さんも松井(幸則・レフェリー)さんも観戦してたらしいです。
冨宅:松井さんはかなり藤原組ファンだったらしいですね。
くい:そうみたいですね。
冨宅:船木さんとスミス戦とかもやっぱり凄かったですよ。
(当時、世界最強のキックボクサーだったモーリス・スミスは、92年4月にフランスでピーター・アーツに敗れるまで8年間無敗を誇っていた。
そのスミスを相手に船木は5ラウンドを戦い抜いた。)
くい:藤原組は(91年3月4日)旗揚げから、翌年10月には東京ドーム大会、それから間もなく解散に至るわけですが。
冨宅:赤字が続いていたので、今後は興行も増やして行くという話しも聞いていましたし選手達も反対はしていなかったんです。
その頃、船木さんと鈴木さんは藤原さんとの間で(方向性の違いもあってか)ほとんど会話がない状態で溝が広がっていました。(後に和解)
それに加えて、当時居た関係者がチケット代を横領していた件も藤原さんの知るところとなり重たい空気が流れていました。
くい:はい。
冨宅:藤原さんが、こんなまとまりのない団体なら解散だと。
くい:はい。石川(雄規)さん以外は離脱しますね。
冨宅:解散という流れになってから、選手同士集まっては今後について、その時は石川も一緒にミーティングをしていたんですよ。
結局、藤原さんに誘われたということもあり石川は残留しました。
船木さんと鈴木さんと僕以外は当時合宿所生活をしていたので、離脱すると住む所がなくなりますよね。
くい:はい。どうなったんですか?
冨宅:高橋和生(現:義生→SRC本部道場ヘッドコーチ。)は実家が千葉にあり戻ることになりました。
柳澤龍志(坂口征二設立の坂口道場所属。)、稲垣一成(現:克臣→パンクラス稲垣組代表。)、國奥道明(現:麒樹真・読み・きうま)は
船木さんと鈴木さんと僕の所にあみだくじでどこに住むのか決めることに(笑)
くい:ははは(笑)誰がどこに住むのか3人ともドキドキしたでしょうね(笑)
冨宅:柳沢は船木さんの所へ行くことになり、稲垣は鈴木さん、國奥は僕の所へ。
結局、2ヶ月くらい一緒に暮らしましたね。
つづく…!!