岸和田:その前、92年も(デビュー)結構多いんだよね。新日本とかだと永田さんとかみんな。(同期は中西学、石澤常光(ケンドー・カシン)、大谷晋二郎、高岩 竜一など)
くい:94年には新格闘プロレスがもう?
岸和田:新オリエンタルプロレスで93年1月にデビューして、その年の12月には確か大阪の枚方で最終興業だった。
当時の社長から今度、青柳館長の誠心会館とオリエンタルプロレスが合体した団体が出来ると言われて誘われた。
そっちは格闘技路線だったんだよ。俺の本来やりたいプロレスとは違うからそこには行きたくなくて。
(オリプロは)新格闘プロレスと(旧)ユニオンプロレス※に分裂しちゃったんだけど。
(※93年、鶴見五郎と高杉正彦が「レスリング・ユニオン」設立を発表。後にIWA流山勢が「ユニオンプロレス」と改称。)
くい:はい。
岸和田:俺はどっちからも誘われてて。正直、板倉さんとウマが合わなかったから。元々プロレスがやりたかったし
ユニオンの方に行きたかったんだけど。当時はそれに対する板倉さんの圧力って大きかったんだよね。
くい:俺がこう言うたらこうやっていう?(笑)
岸和田:そうそう(笑)その時は意見できる立場にも居なかったんだよ。
もう、とりあえずデビューしたし、何とかプロレスラーとしてやって行きたいと思って(新格闘プロレスに)行って。
くい:(当時、南流山の駅の近くに住んでた寮から)柏に移ったのはいつくらいなんですか?
岸和田:新オリエンタルプロレスになってから1月に俺がデビューした後楽園ホール大会で初の入門テストがあって
その時に受けに来たのが今のブラックバファローだよ。
くい:当時はまだ高校生ですよね?
岸和田:確かそうだったね。
春くらいになるとブラックバファローと同期のヤツが6、7人くらい入って来たんだよ。
くい:多いですね。
岸和田:そう。多くて流山に住めないから。鳶職の会社が町谷にあって、鳶の仕事で(移った)。
そこもすごいんだよ。(狭くて)人数分布団が敷けないんだよ。重ねて布団を敷いてる状態。
夜中トイレに行くのに人を起こさないとトイレにも行けない。
その時もみんな辞めて行ったんだよね。すぐ人が居なくなって最後に残ったのがブラックバファローで。
くい:(練習生は)彼ひとりだったんですか?
岸和田:うん。ブラックバファローも辞める辞めるって言ってたんだよ。
でも、俺の中ではコイツに辞められたらまた俺が一番下っ端になると思って(笑)
くい:ははは(笑)
岸和田:だから、「お前イケルよ♪」みたいな感じでうまいこと言って(笑)
必死で引き止めた覚えがあるなァ。
くい:へぇーー(笑)
岸和田:みんな辞めて行く中で、バファローが鳶職の仕事もキツいって言い出してもう無理だってことで。
もう93年春頃には(柏)道場ができてたんだよ。だから7,8月くらいやったかな道場に移してやるからってなって。
俺は鳶職の仕事やってたんだけどその時に柏道場に移った。
くい:その時には板倉さんとか平野さんとか?
岸和田:そう。住んでたんだよね。
くい:で、新格闘プロレスに?
岸和田:そやねん。最初94年の1月、2月は誠心会館の名前で自主興業という形で俺とか上がってたんだよ。
同年3月が新格闘プロレス旗揚げ戦だったんだよ。
それから(同団体崩壊が)早かったなァ。11月やったかな?松阪大会で最後だった。
くい:早いですねぇ。
岸和田:ほんの9ヶ月とか、それくらい。
くい:(新格闘プロレス崩壊は)何が原因で?
岸和田:もう、路線が最初から全然噛み合ってなかった。全くお客さんにも受け入れられてなくて。
くい:僕、初めて上京して4月くらいに観に行きましたね。
岸和田:俺もその当時は(路線が噛み合わなくて)否定的だったんだけど、今振り返ればいい経験になってるな。
元々、オリエンタル自体がガチ志向の強い団体やったから。新格闘になって更にガチの練習をすごいやったよね。
俺、こう見えても蹴りまで練習してた時あったんだよ。
くい:へぇ~~~
岸和田:(他の練習に加えて)サンドバック毎日2時間とか3時間とか蹴ってた時あって。スパーリングも相当やったな。
それはそれでプロレス的にはアレやけど…。ガチをやったっていうのは良かったかも知れないね。
くい:そうですね。昔はそういうのなかったですもんね。その…総合格闘技っていうのは。
岸和田:そうそう。
くい:当時、(修斗VS新格闘プロレスの対抗戦)プロレス雑誌で見ました。
岸和田:俺、やられちゃったんだけどね。
(他は)木川田潤さん(元プロボクシングIBFライト級 日本1位)とか、阿部(吉彦)さん居てたやん。空手家(宮川道場門下生)の。
当時、佐山サトルさんのシューティング(現・修斗)にプロレスラーとして出たのは俺が初めてなんだよ。
くい:どんな感じやったんですか?その時の心境は。
岸和田:その当時の社長からは 気楽な感じで行ってくれたらいいから みたいな感じで言われて(笑)
くい:ははは(笑)やっぱり、全然 プロレスとは違いますか?
岸和田:全く違うな。グラウンドはそこそこ自信あったんやけど、打撃は全くやってなかったから。
新格闘プロレス所属時代にガチをやったっていうのは良い経験だった。
ガチを覚えてからは(唯一キメられてた)板倉さんにもスパーリングでキメられることはなくなったし。
それからは板倉さんも俺とスパーやろうとは言わなくなったよ。
くい:その後、終わったんですよね。(94年11月 三重県・松阪市総合体育館にて団体の終焉を迎える。)
岸和田:そやな。
くいしんぼう仮面(以下、くい):(新格闘プロレスが終焉を迎え)その後はどうしてたんですか?
岸和田:その後は、俺はとりあえずフリーっていうか。
板倉さんはね、自分だけ行き先決めて就職活動してて(笑)
くい:確か、WARでしたっけ?(92年に天龍源一郎がSWSの解散を受けて旗揚げ)
岸和田:そうそうそう。板倉さんはWARに行くってことになったけど、俺は行く所がなくて。
SPWF(谷津嘉章が旗揚げ)とか、SGP(代表は尾内淳、現:ウルトラマンロビン)とか、声が掛かった所に。
あと、屋台村※1 とか出たんだよ。
くい:はい。
岸和田:その頃になると、インディ団体がすごいたくさん出来始めて。
くい:そうですよね。
岸和田:SPWFは旗揚げ戦から出てるんだけど。
SPWFが分裂してレッスル夢ファクトリーができたんだよ。
くい:あれは確か90…何年でしたっけ?
岸和田:SPWFは93年8月に旗揚げしたんだよ。分裂したのは95年3月(夢ファク)。
あと、西日本プロレス(94年12月旗揚げ)。結局、3つに分かれちゃうんだよ。
くい:西日本もそうなんですか?
岸和田:元々そうなんだよ。
毒ガスマスクとかは元々SPWFの3部リーグ※2 だったんだよ。
くい:はい。(サバイバル)飛田さんですね?
岸和田:そうそうそう。
今のプロレス界ってだいたい大阪プロレス教室出身と闘龍門出身の人って多いじゃない。
くい:多いですね。
岸和田:昔で言ったら、ほとんどSPWFだよ。
くい:当時、フリーでやってる時はアルバイトか何かしてたんですか?
岸和田:俺とかがフリーになった時って、(ファイトマネー)今と変わらないくらいだったんだよ。
くい:はい。
岸和田:だいたい2万とか3万くらいだったんだよね。月に5試合くらいあれば10万くらいになって。
バイトやんないとって言いながら、たまに土方したりはしてたけど。
基本、無い金でやって行こうみたいな(笑)
くい:仕送りとかは?その時は?
岸和田:人には言ってなかったけど、仕送りしてもらってたよ。足らんようになったら。
(以下※参照)
※1 屋台村プロレス:当時PWC(代表・高野拳磁)が毎週末 横浜市鶴見区にある屋台村ヨンドンで試合を行っていた。
くいしんぼう仮面メルマガ・屋台村プロレス編も是非ご覧下さい。
※2 社会人や学生にも門戸を開き、1部はプロレスラー、2部は学生プロレスの現役やOBそして社会人プロレスなどのアマチュア、
第3部は素人、に別れていた。
岸和田:(フリーになって)確か最初の仕事はSPWFのジュニアの大会が横浜文体であって。(94年12月17日Jrトーナメント)
くい:はい、ありましたね。
岸和田:新日本からエル・サムライさん出とったやろ。
くい:はいはい。エキサイティング吉田さんとエル・サムライさんの。
岸和田:そうそう。それがフリーになってからの第一戦やったね。
俺は茂木(正淑)さんと1回戦でやったんだよ。
くい:95年もとりあえず同じような感じ(フリー)で?
岸和田:95年になると結構呼ばれ出して、その当時フリーで11団体上がったんだよ。
くい:例えばどんな団体ですか?
岸和田:SPWF、レッスル夢ファクトリー、西日本プロレス、この分裂した3団体に一気に上がったのは俺くらいじゃないかっていう(笑)
くい:ははは(笑)すごい。
岸和田:まだ3億円のスポンサーがつく前の、何ヶ月かに1回やってる※1 東京プロレスってあったんだよ。石川(敬士)さんがやってる。
あと、どこ上がったやろ…。※2 (新生)FMWには95年12月に。(最初、乱入という形で)
くい:はいはい。
岸和田:あとPWCとかね。あと、マニア館※3 興行ってあったんだよ。(水道橋にあるマスク販売の老舗・プロレスマニア館)
くい:ありましたねぇ。
岸和田:今、記憶は定かじゃないんやけど、95年は確か11団体出たのは間違いないな。
くい:それで、食べては行けてたんですか?
岸和田:その年のギャラの総収入は100万くらいやったと思うわ。
くい:へぇーー。
岸和田:たまに土方もやって。
くい:土方の日当はいくらくらいやったんですか?
岸和田:1万円くらいくれてたなァ。
(以下※参照)
※1 東京プロレス:WAR所属だった石川敬士(花籠部屋所属の元大相撲力士)が設立。
3億円相当のチャンピオンベルト(ベルトに宝石を装飾した)TWA認定世界タッグ選手権の新設など、当時何かと話題を振りまいた。
※2 (新生)FMW:95年5月5日 川崎球場にて大仁田厚 引退後、エース・ハヤブサを中心に邪道姫こと工藤めぐみなど
次世代のカリスマが一大旋風を巻き起こす。
くい:95年くらいですかね? 柏道場に僕が初めて顔を出したのは。
岸和田:95年12月くらいに板倉さんから話があって、来年からコイツ住ましてやってくれって紹介されて。
年が変わってからだったかなやって来たのは。
くい:そうですね(笑)懐かしいですね。 あれからもう、えらい経ちますね。
僕、二十歳やったんで。
岸和田:ああ。16年くらいか。
くい:岸和田さんちょうど24歳やったでしょ。
岸和田:いつも高智(政光)とかと会った時によく言うんやけど。あの時と何も変わってへんねん。
生活リズムもそのまんまやし、俺はね(笑)
お前らは結婚したりとか何かステップアップするもんがあったかも知らんけど。
俺は24のあの時のままや。
くい:いやいや(笑)
岸和田さんと会うとあの頃にタイムスリップしますね。
岸和田:ああ(笑)
くい:僕がちょうど(柏道場に)入った時は、確か東京プロレスに出てましたよね。
岸和田:そやな。ちょうど東京プロレスに出てて、3億円のスポンサーがついて(TWA認定世界タッグ選手権 初代王者決定トーナメントを)
やり始める時に、石川(敬士)さんに「今度、ミスター・ポーゴがFMWからフリーになってウチに来るんだよ」って。
「ポーゴはフリーだからパートナーやってくれないか」って言われて。
でも、デスマッチとかルードとかやったことないんでって言ったんやけど…。
くい:はい。
岸和田:俺は結構器用なタイプで、受身は上手く取れるレスラーだったから。
そこを石川さんが(評価してくれて)受けれるレスラーじゃないとダメだってことで。
俺もフリーだったし。それでパートナーをやることになって。
くい:はい。
岸和田:(当時のリングネーム)“闘龍”っていうのは相撲から来てるんだよね。
石川さんが名付け親なんだよ。
くい:へぇーー。そうなんですか。
確か、その時はポーゴさんの付き人みたいな。
岸和田:そやねん。最初パートナーでってことやったんやけど、いつの間にか付き人にされてたんだよ(笑)
くい:そうですよね(笑)
岸和田:それもすごく良い経験になったな、今にして思えば。
岸和田:(当時は)俺の中ではすごいバブルやって。
93年デビューやから3年目で。
東京プロレスで、ポーゴさんと組んでる時は1試合3万で出てたんだよ。
月に最低でも8試合あったんだよな。
くい:はい。
岸和田:多い月だと10試合あって。
多団体出る時は、ポーゴさんが結構高い提示額で言ってくれて。
西日本プロレスとか藤原組とか出る時は1試合5万くれたんだよ。
くい:へぇーーー。
岸和田:あと、ポーゴさんがちょこちょこ仕事取ってくれて。
50万とか超えてる月もあったなァ。
その時はポーゴさんめちゃくちゃ稼いでたんだよ。
くい:どれくらい稼いでたんですか?
くい:94年には新格闘プロレスがもう?
岸和田:新オリエンタルプロレスで93年1月にデビューして、その年の12月には確か大阪の枚方で最終興業だった。
当時の社長から今度、青柳館長の誠心会館とオリエンタルプロレスが合体した団体が出来ると言われて誘われた。
そっちは格闘技路線だったんだよ。俺の本来やりたいプロレスとは違うからそこには行きたくなくて。
(オリプロは)新格闘プロレスと(旧)ユニオンプロレス※に分裂しちゃったんだけど。
(※93年、鶴見五郎と高杉正彦が「レスリング・ユニオン」設立を発表。後にIWA流山勢が「ユニオンプロレス」と改称。)
くい:はい。
岸和田:俺はどっちからも誘われてて。正直、板倉さんとウマが合わなかったから。元々プロレスがやりたかったし
ユニオンの方に行きたかったんだけど。当時はそれに対する板倉さんの圧力って大きかったんだよね。
くい:俺がこう言うたらこうやっていう?(笑)
岸和田:そうそう(笑)その時は意見できる立場にも居なかったんだよ。
もう、とりあえずデビューしたし、何とかプロレスラーとしてやって行きたいと思って(新格闘プロレスに)行って。
くい:(当時、南流山の駅の近くに住んでた寮から)柏に移ったのはいつくらいなんですか?
岸和田:新オリエンタルプロレスになってから1月に俺がデビューした後楽園ホール大会で初の入門テストがあって
その時に受けに来たのが今のブラックバファローだよ。
くい:当時はまだ高校生ですよね?
岸和田:確かそうだったね。
春くらいになるとブラックバファローと同期のヤツが6、7人くらい入って来たんだよ。
くい:多いですね。
岸和田:そう。多くて流山に住めないから。鳶職の会社が町谷にあって、鳶の仕事で(移った)。
そこもすごいんだよ。(狭くて)人数分布団が敷けないんだよ。重ねて布団を敷いてる状態。
夜中トイレに行くのに人を起こさないとトイレにも行けない。
その時もみんな辞めて行ったんだよね。すぐ人が居なくなって最後に残ったのがブラックバファローで。
くい:(練習生は)彼ひとりだったんですか?
岸和田:うん。ブラックバファローも辞める辞めるって言ってたんだよ。
でも、俺の中ではコイツに辞められたらまた俺が一番下っ端になると思って(笑)
くい:ははは(笑)
岸和田:だから、「お前イケルよ♪」みたいな感じでうまいこと言って(笑)
必死で引き止めた覚えがあるなァ。
くい:へぇーー(笑)
岸和田:みんな辞めて行く中で、バファローが鳶職の仕事もキツいって言い出してもう無理だってことで。
もう93年春頃には(柏)道場ができてたんだよ。だから7,8月くらいやったかな道場に移してやるからってなって。
俺は鳶職の仕事やってたんだけどその時に柏道場に移った。
くい:その時には板倉さんとか平野さんとか?
岸和田:そう。住んでたんだよね。
くい:で、新格闘プロレスに?
岸和田:そやねん。最初94年の1月、2月は誠心会館の名前で自主興業という形で俺とか上がってたんだよ。
同年3月が新格闘プロレス旗揚げ戦だったんだよ。
それから(同団体崩壊が)早かったなァ。11月やったかな?松阪大会で最後だった。
くい:早いですねぇ。
岸和田:ほんの9ヶ月とか、それくらい。
くい:(新格闘プロレス崩壊は)何が原因で?
岸和田:もう、路線が最初から全然噛み合ってなかった。全くお客さんにも受け入れられてなくて。
くい:僕、初めて上京して4月くらいに観に行きましたね。
岸和田:俺もその当時は(路線が噛み合わなくて)否定的だったんだけど、今振り返ればいい経験になってるな。
元々、オリエンタル自体がガチ志向の強い団体やったから。新格闘になって更にガチの練習をすごいやったよね。
俺、こう見えても蹴りまで練習してた時あったんだよ。
くい:へぇ~~~
岸和田:(他の練習に加えて)サンドバック毎日2時間とか3時間とか蹴ってた時あって。スパーリングも相当やったな。
それはそれでプロレス的にはアレやけど…。ガチをやったっていうのは良かったかも知れないね。
くい:そうですね。昔はそういうのなかったですもんね。その…総合格闘技っていうのは。
岸和田:そうそう。
くい:当時、(修斗VS新格闘プロレスの対抗戦)プロレス雑誌で見ました。
岸和田:俺、やられちゃったんだけどね。
(他は)木川田潤さん(元プロボクシングIBFライト級 日本1位)とか、阿部(吉彦)さん居てたやん。空手家(宮川道場門下生)の。
当時、佐山サトルさんのシューティング(現・修斗)にプロレスラーとして出たのは俺が初めてなんだよ。
くい:どんな感じやったんですか?その時の心境は。
岸和田:その当時の社長からは 気楽な感じで行ってくれたらいいから みたいな感じで言われて(笑)
くい:ははは(笑)やっぱり、全然 プロレスとは違いますか?
岸和田:全く違うな。グラウンドはそこそこ自信あったんやけど、打撃は全くやってなかったから。
新格闘プロレス所属時代にガチをやったっていうのは良い経験だった。
ガチを覚えてからは(唯一キメられてた)板倉さんにもスパーリングでキメられることはなくなったし。
それからは板倉さんも俺とスパーやろうとは言わなくなったよ。
くい:その後、終わったんですよね。(94年11月 三重県・松阪市総合体育館にて団体の終焉を迎える。)
岸和田:そやな。
くいしんぼう仮面(以下、くい):(新格闘プロレスが終焉を迎え)その後はどうしてたんですか?
岸和田:その後は、俺はとりあえずフリーっていうか。
板倉さんはね、自分だけ行き先決めて就職活動してて(笑)
くい:確か、WARでしたっけ?(92年に天龍源一郎がSWSの解散を受けて旗揚げ)
岸和田:そうそうそう。板倉さんはWARに行くってことになったけど、俺は行く所がなくて。
SPWF(谷津嘉章が旗揚げ)とか、SGP(代表は尾内淳、現:ウルトラマンロビン)とか、声が掛かった所に。
あと、屋台村※1 とか出たんだよ。
くい:はい。
岸和田:その頃になると、インディ団体がすごいたくさん出来始めて。
くい:そうですよね。
岸和田:SPWFは旗揚げ戦から出てるんだけど。
SPWFが分裂してレッスル夢ファクトリーができたんだよ。
くい:あれは確か90…何年でしたっけ?
岸和田:SPWFは93年8月に旗揚げしたんだよ。分裂したのは95年3月(夢ファク)。
あと、西日本プロレス(94年12月旗揚げ)。結局、3つに分かれちゃうんだよ。
くい:西日本もそうなんですか?
岸和田:元々そうなんだよ。
毒ガスマスクとかは元々SPWFの3部リーグ※2 だったんだよ。
くい:はい。(サバイバル)飛田さんですね?
岸和田:そうそうそう。
今のプロレス界ってだいたい大阪プロレス教室出身と闘龍門出身の人って多いじゃない。
くい:多いですね。
岸和田:昔で言ったら、ほとんどSPWFだよ。
くい:当時、フリーでやってる時はアルバイトか何かしてたんですか?
岸和田:俺とかがフリーになった時って、(ファイトマネー)今と変わらないくらいだったんだよ。
くい:はい。
岸和田:だいたい2万とか3万くらいだったんだよね。月に5試合くらいあれば10万くらいになって。
バイトやんないとって言いながら、たまに土方したりはしてたけど。
基本、無い金でやって行こうみたいな(笑)
くい:仕送りとかは?その時は?
岸和田:人には言ってなかったけど、仕送りしてもらってたよ。足らんようになったら。
(以下※参照)
※1 屋台村プロレス:当時PWC(代表・高野拳磁)が毎週末 横浜市鶴見区にある屋台村ヨンドンで試合を行っていた。
くいしんぼう仮面メルマガ・屋台村プロレス編も是非ご覧下さい。
※2 社会人や学生にも門戸を開き、1部はプロレスラー、2部は学生プロレスの現役やOBそして社会人プロレスなどのアマチュア、
第3部は素人、に別れていた。
岸和田:(フリーになって)確か最初の仕事はSPWFのジュニアの大会が横浜文体であって。(94年12月17日Jrトーナメント)
くい:はい、ありましたね。
岸和田:新日本からエル・サムライさん出とったやろ。
くい:はいはい。エキサイティング吉田さんとエル・サムライさんの。
岸和田:そうそう。それがフリーになってからの第一戦やったね。
俺は茂木(正淑)さんと1回戦でやったんだよ。
くい:95年もとりあえず同じような感じ(フリー)で?
岸和田:95年になると結構呼ばれ出して、その当時フリーで11団体上がったんだよ。
くい:例えばどんな団体ですか?
岸和田:SPWF、レッスル夢ファクトリー、西日本プロレス、この分裂した3団体に一気に上がったのは俺くらいじゃないかっていう(笑)
くい:ははは(笑)すごい。
岸和田:まだ3億円のスポンサーがつく前の、何ヶ月かに1回やってる※1 東京プロレスってあったんだよ。石川(敬士)さんがやってる。
あと、どこ上がったやろ…。※2 (新生)FMWには95年12月に。(最初、乱入という形で)
くい:はいはい。
岸和田:あとPWCとかね。あと、マニア館※3 興行ってあったんだよ。(水道橋にあるマスク販売の老舗・プロレスマニア館)
くい:ありましたねぇ。
岸和田:今、記憶は定かじゃないんやけど、95年は確か11団体出たのは間違いないな。
くい:それで、食べては行けてたんですか?
岸和田:その年のギャラの総収入は100万くらいやったと思うわ。
くい:へぇーー。
岸和田:たまに土方もやって。
くい:土方の日当はいくらくらいやったんですか?
岸和田:1万円くらいくれてたなァ。
(以下※参照)
※1 東京プロレス:WAR所属だった石川敬士(花籠部屋所属の元大相撲力士)が設立。
3億円相当のチャンピオンベルト(ベルトに宝石を装飾した)TWA認定世界タッグ選手権の新設など、当時何かと話題を振りまいた。
※2 (新生)FMW:95年5月5日 川崎球場にて大仁田厚 引退後、エース・ハヤブサを中心に邪道姫こと工藤めぐみなど
次世代のカリスマが一大旋風を巻き起こす。
くい:95年くらいですかね? 柏道場に僕が初めて顔を出したのは。
岸和田:95年12月くらいに板倉さんから話があって、来年からコイツ住ましてやってくれって紹介されて。
年が変わってからだったかなやって来たのは。
くい:そうですね(笑)懐かしいですね。 あれからもう、えらい経ちますね。
僕、二十歳やったんで。
岸和田:ああ。16年くらいか。
くい:岸和田さんちょうど24歳やったでしょ。
岸和田:いつも高智(政光)とかと会った時によく言うんやけど。あの時と何も変わってへんねん。
生活リズムもそのまんまやし、俺はね(笑)
お前らは結婚したりとか何かステップアップするもんがあったかも知らんけど。
俺は24のあの時のままや。
くい:いやいや(笑)
岸和田さんと会うとあの頃にタイムスリップしますね。
岸和田:ああ(笑)
くい:僕がちょうど(柏道場に)入った時は、確か東京プロレスに出てましたよね。
岸和田:そやな。ちょうど東京プロレスに出てて、3億円のスポンサーがついて(TWA認定世界タッグ選手権 初代王者決定トーナメントを)
やり始める時に、石川(敬士)さんに「今度、ミスター・ポーゴがFMWからフリーになってウチに来るんだよ」って。
「ポーゴはフリーだからパートナーやってくれないか」って言われて。
でも、デスマッチとかルードとかやったことないんでって言ったんやけど…。
くい:はい。
岸和田:俺は結構器用なタイプで、受身は上手く取れるレスラーだったから。
そこを石川さんが(評価してくれて)受けれるレスラーじゃないとダメだってことで。
俺もフリーだったし。それでパートナーをやることになって。
くい:はい。
岸和田:(当時のリングネーム)“闘龍”っていうのは相撲から来てるんだよね。
石川さんが名付け親なんだよ。
くい:へぇーー。そうなんですか。
確か、その時はポーゴさんの付き人みたいな。
岸和田:そやねん。最初パートナーでってことやったんやけど、いつの間にか付き人にされてたんだよ(笑)
くい:そうですよね(笑)
岸和田:それもすごく良い経験になったな、今にして思えば。
岸和田:(当時は)俺の中ではすごいバブルやって。
93年デビューやから3年目で。
東京プロレスで、ポーゴさんと組んでる時は1試合3万で出てたんだよ。
月に最低でも8試合あったんだよな。
くい:はい。
岸和田:多い月だと10試合あって。
多団体出る時は、ポーゴさんが結構高い提示額で言ってくれて。
西日本プロレスとか藤原組とか出る時は1試合5万くれたんだよ。
くい:へぇーーー。
岸和田:あと、ポーゴさんがちょこちょこ仕事取ってくれて。
50万とか超えてる月もあったなァ。
その時はポーゴさんめちゃくちゃ稼いでたんだよ。
くい:どれくらい稼いでたんですか?