自分のセルフイメージ=アイデンティティを形成する要素に他人が関与しないと成立しない状態になっているのであれば、それだけ不確定要素を孕む事になる。
故に他人が自分に関与する、又は他人に対して自分が関与する…それらの成分が多ければ多いほど自身のアイデンティティは脆弱性が増す。
他人に何かを与える事が自分であり、そうしている自分には価値があるが、それが出来ない自分には価値がないと思っていた。
他人に与えたい、他人に何かを与えている自分には価値があると思い込んでいた僕は、ある日与えられる存在、居場所を失い、自分の価値を見失った。
与えるという事すら、実際は自己満足であり本当に、その他人や環境に自分の思い通りに与えられたか否かを知る由も無い。
当人の頭の中のイメージだけで、与えたという気分になれば与えた事にはなるが、果たしてそれを受けた相手がどう取るかは相手次第だ。
与えたという思い込みに耽っていた僕は、その時は満足感があり自尊心をくすぐられていた。
だから、自分のアイデンティティを保っていられた。
他人の為に他人の事を思って尽くしている自分は素晴らしい。
そう本気で思っていた。
でも、それは僕が自分という存在に価値を感じたいが為に、他人を利用していた行為に過ぎない。
〜してあげる、という恩着せがましい思いに駆られ、それと引き換えに自分の価値を感じさせてくれと暗に言っていた。
そして、それは日を追うごとに他人を自分はコントロール出来ているという誤った実感を増幅し、勘違いへと推し進めた。
他人に親切にすれば礼を言われる。
笑顔で振舞えば笑顔で返してもらえる。
他人から自分の生の実感を与えて貰う為に僕は無心になって、与えようとし続けてきた。
そして、それは他人が便宜上やっているにも関わらず、俺がそう他人をコントロールしているのだなどと、浅ましい勘違いを生んだ。
こちらが何と働きかけようと、他人がどういう発言、行動を取るかは他人の意思によるものであり、僕の発したものなど意味はないというのに。
だから、同時に比例して他人が恐くなっていった。
自分がコントロールしているという驕りによって、自分の一挙手一投足に誤りがあれば、相手の機嫌を損ねる、相手から好印象を持って貰えない…。
もし、そうなったのなら自分の責任なのだ、自分が中途半端なコントロールの仕方をしたから他人はそうしたのだという思考に数年間、陥ってしまっていた。
一体、どこまで自分は勘違いを突き詰めていたのだろうか…。神にでもなったつもりと言っても過言ではないレベルだった。
だが現実は違った。
僕が他人に与えようとして取った行動、発言によって他人が自分の意のままに動いたワケじゃなかった。
他人は他人の意思により、そうしたいと決めてそうしただけだった。
実際に僕が他人に対して出来る事など何一つない。
僕は他人に対して何の効力も持っていない。
僕が何らかの行動をして、または発言をして他人の行動等が変化したように見えても、それは他人が考え他人が決め、他人が選択しただけだ。
そして他人に対して操作的になっている時ほど、人は恐れを抱いている。
過剰なまでに他人に対して与えようとしていたのは、自分のアイデンティティの証明の為に過ぎず、その他人の事を本当には何も思いやっていなかった。
自分に価値を感じたいが為に他人に与えようとしていたが、無価値感を抱えた人間が他人に何を与えられるというのだろうか。
実際にしていたことは、ただ自分は他人に怯えながら貰おう奪おうとしていたに過ぎない。
それらを成す為に上辺で優しさを演じて与えようとしていただけだ。