LF1『雄鶏と錨』亭35 | 左団扇のブログ

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    第三十五章


  従妹と黒い飾り箪笥に就いて — 及びヘンリー・アシュウッドのレディ・ステュクリーとの決定的な面談に就いて

 

 

「それならば」と、前章で忠実に記録されているあの出来事から数日後、アシュウッドは言った。「あの地獄の証書の為に時を移さずに準備をしなくてはならない。それが燃えて灰になるまでは、被告人席に立たされている様なものだ。長引かせてなるものか……、運命の星に感謝しよう、脱出の扉が一つだけ僕に開かれている、それを通り抜けるとしよう。僕の不安の上に陽が沈む事は無いさ。大丈夫、きっと上手く行く……、だが、畜生、今は仕方が無い。笑ったり、冷やかしたり、軽蔑したりしたい連中は、好きにしろ。奴らの三分の二だって、レディ・ステュークリーと結婚して、その財産の半分を手に出来れば大喜びだろう、たとえ彼女が二倍歳を取っていて、二倍醜くかったとしてもだ。まあ、その可能性は有り得る事だが。なあに、笑いなんか一週間で収まるだろうし、僕がしようとするやり方で、世界の半分が僕の足元にひれ伏す事にならなければ、糞食らえだ。金だ、金だけをくれ……、沢山の金を、そうすれば、僕がどんなに非常識や悪徳の見本であっても、街全体が僕をソロモン王の様な賢人、或いは聖人と看做すだろう。だから、もう瀬戸際で震えたりせず、思い切って直ぐに飛び込み、さっさと終わらせよう」

 こんな考えに意思を固め、ヘンリー・アシュウッド卿は軽々と鞍の上に跳び乗り、愛馬をゆったりとした駈歩(キャンター)で進ませ、あっと言う間にスティーヴン・グリーンにある、レディ・ステュークリーの屋敷に着いた。自分の召使いに手綱を取らせて下馬し、入邸の許可を得ると、覚悟を全て奮い起こして軽やかに階段を登り、立派な応接間に入った。レディ・ステュークリーはそこに居らず、従妹のエミリー・コープランドが彼を迎えた。

「レディ・ベティーの姿が見えないが」と、どうでも良い話題に就いて少しおしゃべりした後、彼は訊ねた。

「買い物に出かけているんだと思うわ……、実際、あなたも夫人が家にいないと確信しているんじゃないかしら」と、エミリーは意地悪そうな笑みを浮かべて答えた。「奥様は何時もあなたを迎え入れるわね。ねえ、白状して。レディ・ステュークリーから、文句を言いたくなる位に、何かひどく残酷な、或いは冷酷な仕打ちを受けた事はあるの」

 アシュウッドは笑ったが、一瞬、恐らく少し狼狽した様子だった。

「僕を告解室に送って告白させようと君がするのなら、正直に言うが、レディ・ベティーは何時でも僕が期待し希望する通りに親切で丁寧だったよ」と、アシュウッドが重々しく、そして特に済まし込んだ様子で答えた。「そうじゃないと言ったりすれば、僕はひどい恩知らずになってしまう」

「ああ、ほほほ、それでは奥様は私のプラトニックな従兄に、感謝の気持ちを抱かせる事に成功したのね」と、エミリーは同じ口調で続けた。「そして私達の誰もが知る様に、感謝は愛のキューピッドの最高の変装だわ。ああ、残念、私達は仕舞いにどんな卑劣な利用をする事になるのでしょう……、ああ、可哀想なあなた」

「いやいや、エミリー」と、ヘンリーは少しイラついて言い返した。「君は未だ僕の墓碑銘を書く必要は無い。どうしてそんなに僕の事を憐れむのか全然分からないよ」

「レディ・ステュークリーへの感謝で胸が熱いと白状しなかったかしら」と、エミリーが応じた。

「馬鹿馬鹿しい、胸が熱くなっているなんて言ってやしない。だが、もしそうだったらどうなんだい」

「それじゃ、自分で胸が熱くなっていると認めている様なものよ。神様、彼に救いを、あの人は本当に燃えているわ」

「ちぇっ、くだらない、馬鹿げてる。エミリー、愚かな真似はやめろ」と、我慢ならずにヘンリーが言った。

「ああ、ハリー、ハリー、ハリー、否定をしないで」と、エミリーは重々しく首を横に振り、警告する様に指を立てながら続けた。「それじゃあなたは、本当に恋しているのよ。ああ、ベネディック、哀れなベネディック、(なんじ)もっと年端の行かぬベアトリス[1] を選ぶべきにあらざりしか……、でも、それが何でしょう……、(よわい)を重ねた美しさは無知蒙昧の眼には、若さから来る美しさよりも魅力的ではありませんが、間違い無く永続的なものです。時は頰から輝きを奪うかも知れませんが、私は時が頰から紅色を奪うのに抵抗します。歳月は……、世紀と言っても良いですが……、鬘を白くしたりその垂れ髪を細くしたりする力はありません。そして、乙女が歳を経て盲目になったとしても、求婚者が恋愛に盲目になっていれば何の問題があるでしょう。きっと、夫人の余命が二倍になるかも知れないのと同じ位、あなたも一緒にいればきっと幸せになれると確信しています」

 アシュウッドは暖炉の火を掻き回し、激しく(はな)をかんだが、何も言い返しはしなかった。

「夫人の頰の薄紅色と鬘の漆黒色とは」と、頑固なエミリーは続けた。「似通った印象的な対照で、あなたに思い出させてくれるでしょう、それが有益だと私も信じますが、あなたを日々破滅へと導いた、あの(ルージュ)()(ノワール)[2] をね」

 なおもアシュウッドは口を開かなかった。

「奥様の見事に豊満な体型は、厳密にはイネ科の草では無いにしても、肉付きは少なくともふすま(ブラン)[3] やバックラム[4] よりもほんの少し良い事を、あなたに思い出させるでしょう。そして、彼女の微笑は、物を噛むつもりが無ければ、自分の歯を見せるべきでは無い、取り分け、その歯が奥様のものに似ている場合は見せるべきでは無いと云う、大きな真実を常に示唆する事でしょう。要するにあなたが夫人を見て、正しく読み取るならば、彼女が道徳的教訓を与えていると感じずにはいられず、彼女の前では男性の本性の手に余る情熱も、すっかり収まり、静まり返らずにはいられないでしょう。その上、夫人はあなたを幸せに、大いに幸せにしてくれるでしょう。凡ゆる細かな気配り、凡ゆる愛撫、あなたに向ける凡ゆる(じょう)に満ちた眼差し、これらはあなたの幼少期の記憶の中さまよあなたの優しい心、彼女があなたのお祖母様だったらこんな風だった、或いはこんな風にしたくても出来なかった様だと、あなたを確信させ喜ばせる事でしょう。ああ、ハリー、それは本当に大いなる幸せになるでしょう」

 再び沈黙が続き、エミリーはマントルピースの近くでむっつりとして立っているヘンリー卿に近寄り、彼の腕に手を置き、その顔をお茶目に見上げ、首をゆっくりと横に振りながら言った。

「ああ、恋よ、恋よ……、ああ、キューピッド、キューピッド、悪戯小僧よ、汝は私の哀れな従兄に何を為せしや」

    そは寡婦給与財産[5] の土地の上、
    射手たるキューピッドの構えしは
[6]

 エミリーがこう言った時、彼女は言葉で言い表せない程にお茶目でひょうきんに見えたので、ひどく苛立っていたヘンリーも、必死に(こら)えようとしたにも(かかわ)らず、思わず心から笑い続けてしまった。

「エミリー、君はまったく手に負えないな」と、遂にヘンリーが口を開いた。「君と一緒だと全然真面目じゃいられない。だが、出来れば少しだけ真剣に僕の話を聴いてくれ。僕が今どんな状況にあるか、これからそれを率直に語るから、この件に関してはもう冷やかしたりしないと約束してくれ。だが、先ずは」と、彼は慎重に言い足した。「立ち聞きされない様に用心しよう」

 そこで彼は、自分達二人がいる部屋に面した隣の部屋に入って行き、そこの奥のドアを閉めようと進んだ。しかしながら、そこに着く前に、別な部屋のドアが開き、レディ・ステュークリー自身が入室して来た。彼女が姿を見せた瞬間、エミリー・コープランドは静かにする様に仕草で示し、ヘンリーがのんきに鼻歌を歌う声が聞こえて来る、隣の部屋のドアに向かってうなずいて見せた。それから、眉をひそめ、またうなずき、そして、壁の暗く凹んだ場所を激しく何度も指差した。そこはニスを塗った黒く巨大な飾り箪笥の脇で陰になっているせいで、より暗く、より安全になっていた。レディ・ステュークリーは当惑した表情を見せたが、若い娘が示した隠れ場所へと一歩足を進め、再び、当惑とためらいの表情を見せた。エミリーはより一層せっかちに合図を繰り返し、奥方ははっきりとした理由も分からず、それでも好奇心満々で、陶磁器の置物が満載の飾り箪笥の陰に廻り込んで隠れ場所に入り、すっかり身を潜めた。それは厚手の絨毯のお蔭で音を立てずに出来た、その動きが済むと間も無く、アシュウッドが戻って来て、二つの部屋を繋ぐドアを閉め、それから最前レディ・ステュークリーが入って来たドアも閉めたが、二人の距離は余りに近く、もう少しで触れ合いそうだった。それらの予防策を施した後、彼はエミリーの所に戻って来た。

「さて」と、彼は小さく慎重な声で言った。「有り(てい)に言うと、事態はこんな具合だ。僕は借金で首が回らない状況にあり……、その借金はひどく急を要するもので……、破産の危機に瀕している。だから、それはどうしても支払わなくてはならない……、何らかの方法で弁済する必要がある。その実現の為、僕にある方針、急場しのぎの手段は、たった一つ、それは君も察しが付くだろう。レディ・ステュークリーの事を僕ほど知っている者はいない他の誰よりも夫人に関して滑稽で不快なものを全て分かっている。僕から見て祖母と云っても良い位の年寄りで、悪魔の様に醜く……、そして更に、何処かの看板みたいに白粉(おしろい)や紅を塗りたくっている。夫人は愚か者かも知れない……、ガミガミ女かも知れない……、君が思う通りの人物かも知れない……、だが……、だが、夫人にはお金がある。この一年余りの間、夫人は僕の腕の中に身を投げ出し続けて来た……、そして……、おやこれは一体何だ

 この問い掛けは、レディ・ステュークリーが潜んでいた場所から突然発せられた、むせぶ様な声に因って起きたもので、その直後に夫人が実際に姿を見せた。彼女は口を開いたものの、発せられるのは喘ぎ声だけだったが、余りに禍々(まがまが)く、膨れ上がる様な壮大さ反り身になって直立していたので、アシュウッドは彼女が幻灯[7] の妖怪の様に、頭が天井まで届くのではないかと思う程だった。夫人は前に進みながら、飾り箪笥から二十個もの陶磁器の置物を搔き出しては、床中に猿、怪物、中国服の首振り人形等の破片を撒き散らし、息も切れ切れになった。そして怒りで顔をほとんど紫色にしたレディ・ステュークリーは、人生で初めて、凡ゆる冷静沈着をすっかり喪失してしまったアシュウッドの方に向かって来た。

 




「白粉や紅を塗りたくっているですって」と、彼女はヒステリックに叫んだ。「滑稽で不快ですって。ああ、おやまあ、あなたは……、あなたこそ尋常じゃない怪物です」。こう言った後、彼女は二度金切り声を上げ、万一の事を恐れ、取り乱しながらも片手で鬘を押さえながら、ひどく発作的に椅子に身を投げた。

「やめて……、呼び鈴を鳴らさないで」と、エミリー・コープランドが呼び鈴に近付くのを見て、夫人は急に毅然とした心を取り戻して言った。「やめて、直ぐに良くなります」。そして、再び口を開いて、叫び声を上げた。

 そのヒステリーが収まると、アシュウッドは乱れた頭を少し回復させ始め、レディ・ステュークリーが眼を閉じて極度の倦怠と疲弊でぐったりと座っているのを認めて、怒れる我が神的存在の(もと)思い切って近付いた

「お察しします……、全く弁明しなくては」と、おずおずしながら言った。「色々説明しなくてはなりません……、ええ、そうです。そう致します、レディ・ステュークリー……、そして……、そして、僕はすっかり納得させて差し上げられるでしょう……、完全にお疑いを払拭出来るでしょう……」

 ここで彼の言葉は遮られた。レディ・ステュークリーがすくっと直立し、こう叫んだからだ。

「この恥知らず、悪党、不実者、腹黒、根性悪、嘘()卑劣漢低脳低俗極悪人……

 夫人が言葉を積み重ねて怒りを表現しようとした挙句の事なのか、それとも普通ヒステリー患者にはこうした結果が付き纏うのか、我々にはそれを言う資格は無いが、まさにこの時、元気を失くしていた、上流社会の女性、レディ・ステュークリーが、実際に若い准男爵の顔に唾を吐きかけたのは確かである。

 アシュウッドは血相を変え、直ぐさま顔を拭うと云う馬鹿馬鹿しいながらもとても必要な作業を遂行した。この挑発に何とか耐え、何も言い返さない様に自分に言い聞かせた。後ろ向きになり、階下に降りて行きながら、ぶつぶつと言った。

「厚化粧の老いぼれ悪魔め」

 ヘンリーが立ち去って行くと、たった今起こった場面の混乱と興奮とを、冷たい空気が一気に消し去り、自分とレディ・ステュークリーとの決裂がもたらす凡ゆる成り行きが、彼の頭に怒濤の様な凶暴な力で押し寄せた。

「あなたの言う通りだったわ、完全にね……、彼はペテン師で……、詐欺師で……、悪党だわ」と、レディ・ステュークリーが叫んだ。「彼の事を思うだけでうんざりだわ。ああ、おやまあ」。そして再び彼女は激しいヒステリーに襲われ、その状態のまま寝室までエミリー・コープランドに連れて行かれたが、この娘は今度の惨事を、女性で、しかも悪戯好きな者にしか分からない、強烈な面白味で楽しんでいた。 

 レディ・ステュークリーは腹黒い若き准男爵の罠から逃れた事を、何度も大声で神に感謝し、エミリー・コープランドにも沢山の温かい謝辞を述べたが、その時以来、夫人はエミリーに対して強い嫌悪感を抱く様になった。



[1]  ベネディックとベアトリスはシェイクスピアの戯曲『から騒ぎ』の登場人物。イタリアのパドヴァの貴族ベネディックは独身主義者だったが、周りの策略もあって、長い間仲違いしていたベネディクトと結婚する。

[2]  トランプ賭博全般を指すと思われる。「ルージュ・エ・ノワール」(別名「トラント・エ・カラント(「30と40

」の意)」)と云う名の、17世紀末のフランス発祥のカジノ・ゲームもあるが、これまでの本文に記載されていないし、18世紀半ばにイギリスに伝わったと云うので、18世紀初めとされる本書の設定にそぐわない

[3]  小麦の皮。

[4]  綿や麻等の布を糊やニカワで固めたもの。書物の装丁等に使われる。

[5]  夫の死後、未亡人が終身所有出来る不動産の権利。(再掲)

[6]  同じ著者の『サイラス叔父さん』(Uncle Silas)にも、同じ詩句が出て来る。

[7]  映画の映写機の前身の様な存在で、ガラスの画像をランプの灯りで投影するもの。