コートニー・ラブCourtney Love, 1964年 7月9日
- )は、
アメリカ合衆国 カリフォルニア州 出身のミュージシャン 歌手 作詞家 )で、ハリウッド 女優 でもある。ホール (hole)のヴォーカル ギター を担当した。

また、
ニルヴァーナ カート・コバーン の妻としても有名。カートとの間に生まれた娘のフランシス・ビーン も、モデル として活動している。
グレイトフル・デッド の信奉者だったハンク・ハリソンと、心理学者のリンダ・キャロルとの間にラブ・ミッチェル・ハリソン(Love Michelle Harrison)として生まれる。アメリカ国内を転々とし、一時オレゴン州で過ごす。幼少の頃に、ジミ・ヘンドリックス のアルバム『エレクトリック・レディランド 』の裏ジャケットに写った。子どものときに自閉症 の傾向があると診断される。
14歳のときに万引きで逮捕されて少年鑑別所に入れられる。16歳で釈放されて以降はストリッパー になる。アイルランド、日本、台湾、リバプールなどへも渡り、バンドのグルーピー をしたり、自らもいくつかのバンドを組んでいた。一時は、フェイス・ノー・モア のヴォーカルも務めていたが、歌があまり上手くないことを理由に解雇される。
1989年 ロサンゼルス ホールを結成。1991年 、2人目の夫となるカート・コバーンと知り合い、妊娠、翌年に結婚。夫のバンド、ニルヴァーナが世界的なヒットを飛ばして一躍有名になるが、同時に2人の生活は、マスコミの餌食となる。
娘の
フランシス・ビーン・コバーンは健康体に生まれたが、妊娠中に彼女が
ドラッグ を使用したと一部で報道されたために、ワシントン州は2人の養育権を疑い裁判になった。1993年 初めに、2人の主張が通り、フランシスは2人の手元に。ホールの活動も再開し、1994年4月のアルバム発売に向けてレコーディングを始める。
しかし、ドラッグの噂は始終2人に付きまとい、友人の説得や病院の治療も虚しく、1994年 4月5日 に、カートは自殺してしまう。予定通り、その1週間後に、ホールのセカンド・アルバム『リブ・スルー・ディスLive Through This)』が発売。様々な憶測ばかりが飛び交う中、このアルバムはプラチナ・ディスク となった。
カートの死後は本格的に女優業に取り組んでいった。
女優業に邁進する余り、ホールとしての活動は停止状態に陥っていたが、1998年 に、3枚目のアルバム『セレブリティ・スキン(Celebrity Skin)』を発売。スマッシング・パンプキンス ビリー・コーガン も参加し、前作以上の期待を持たれた作品であったが、レコード会社との契約問題から、終にはユニバーサルミュージック を相手取って訴訟にまで発展した。ミュージシャンの著作権 保護の問題と直結したこの争いはマスコミにも注目され、アルバムはグラミー賞 にもノミネートされたが、結局、ホールは2002年5月正式に、活動停止を宣言した。
ニルヴァーナの音源やカートの肖像権を廻って、残りのメンバーと訴訟を起こしたり、チャリティコンサートでストリップをしたり、その性格と言動によって、彼女は多くの人々の批判と注目を浴びる存在となった。