1946年 アメリカが南太平洋ビキニ環礁で原爆実験。

ビキニ環礁で行なわれた最初の核実験は、1946年 7月1日7月25日クロスロード作戦 である。これは1945年ニューメキシコ広島長崎 に続く史上4番目と5番目の核爆発であった。

大小71隻の艦艇を標的とする原子爆弾 の実験であり、主要標的艦はアメリカ海軍戦艦ネバダ 」、「アーカンソー 」、「ニューヨーク 」、「ペンシルベニア 」、空母サラトガ 」などのほか、第二次世界大戦 で接収した日本海軍戦艦長門 」、ドイツ海軍重巡洋艦プリンツ・オイゲン 」なども標的となった。



1954年 3月1日キャッスル作戦 ブラボー実験では、広島型原子爆弾 約1,000個分の爆発力(15Mt)の水素爆弾が炸裂し、海底に直径約2キロメートル、深さ73メートルのクレーター が形成された。

このとき、日本のマグロ漁船・第五福竜丸 をはじめ約1,000隻以上の漁船が死の灰 を浴びて被曝した。また、ビキニ環礁から約240km離れたロンゲラップ環礁 にも死の灰が降り積もり、島民64人が被曝して避難することになった。この3月1日は、ビキニ・デーとして原水爆禁止運動 の記念日となり、継続的な活動が行われている。



ビキニ環礁(ビキニかんしょう、Bikini Atoll)は、マーシャル諸島共和国 に属する環礁 。23の島嶼からなり、礁湖の面積は594.1平方キロメートル。

1946年 から1958年 にかけて、太平洋核実験場 の一つとしてアメリカ合衆国 が23回の核実験 を行った。




米国は1958年から残留放射能の調査を開始し、1968年8月には居住は安全であるとの結論が出され、島民の帰島が許可された。実験に先立ち離島した167人の内139人が帰島したが、1975年に島民は安全性に疑問を持ち、アメリカ政府に対して訴訟を起こした。

その後1975、76、78年に調査が行われ、1978年9月には再避難することとなった。2度目の避難の後、1980、82年にも調査が実施された。これらの米国による調査の後、1986年に独立したマーシャル諸島共和国政府は第三者による調査を実施した。その報告書は1995年2月に提出されたが、共和国政府は報告書を承認しなかった。

1994年には共和国政府は国際原子力機関(IAEA)に放射能調査を依頼し、1997年5月にIAEAによる調査が開始された。1998年にIAEAは報告書「Radiological Conditions at Bikini Atoll: Prospects for Resettlement」 を発表し、その中で本環礁に定住しそこで得られる食料を摂ると年間15mSvに達すると推定され「永住には適さない」と結論づけた。

島民は、強制的にロンゲリック環礁 へ、更にキリ島 へと移住させられた。上記の理由も有り現在まで、原島民は島に戻れない。

放射能 レベル自体は、短期間の滞在では問題ないレベルまで下がっており、現在では美しい沿海、上記艦船はダイビング スポットになっている。リゾートホテルもある。

2008年 4月オーストラリア 研究会議(ARC)は、ビキニ環礁のサンゴ礁の現状について発表した。その発表によると、ビキニ環礁面積の80%のサンゴ礁が回復しているが、28種のサンゴが原水爆実験で絶滅した。