手持ちのテレキャスターのネックPUにハムバッカーを仕込もうと、取り付け方を検討している中で、シーモア・ダンカンによるジェフ・ベック「テレ・ギブ」の製作に関する記事を見つけました。
拙訳ですが、時間があれば一読ください。
ジェフ・ベックの「テレ・ギブ」を作ったのは1974年、ロンドンのフェンダー・サウンドハウスで働いていた頃だ。ギターの修理と改造を手掛け、ヨーロッパのトップ・ギタリスト達と仕事をしていた。夕方には、ギターサウンドの実験を兼ねてポリドール・レコードでレコーディングを行っていた。
「テレ・ギブ」の製作は、スラブ・ローズ指板を持つ59年製テレキャスターの解体から始まった。そのボディはノミで乱暴に削られ、見た目にも不細工な改造が施され、ピックガード、ブリッジやその他のパーツは取り去られて無くなっていた。このテレキャスターは1972年に、オハイオ州シンシナチ の楽器店で見つけたものだ。そいつを翌年、ロイ・ブキャナンと彼のマネージャーのジェイ・リーチ(Jay Reich)に会うため、ロンドンに行くときに持って行った。
ロイはヨーロッパ公演を、メインのロンドン公演の前にドイツからスタートさせていた。当時の私のマネージャー、ノーマン・ヴァンデンバーグ(Norman Vandenberg)が…彼はクリス トファー・レインボー(アラン・パーソンズのキャメルとソロ・アルバム)のマネジメントも行っていたが…ロンドンのある新聞で、フェンダー・サウンドハウスが修理のできるギター・テクを募集中という広告を目にした。
私は夜間はセッションに明け暮れていたが、昼間は時間が空いていたので、その仕事に応募することにした。めでたく職を得て、アンプの魔術師ロン・ロカ(Ron Roka)と一緒に仕事をするようになった。彼はフェンダー・サウンドハウスのメインフロアに仕事場を持っていた。サウンドハウスは元々はロンドンのトッテナム・コート通にあった。そこで働くのはとても素晴らしいことだったし、3階のスタジオでリハーサルをする多くの偉大なギタリスト達に会えるチャンスもあったのだ。
近くには、ジェフ・ベックがBB&Aの2枚目の録音を行っているCBSのスタジオもあった。 ジェフはストラトをフェンダー・デラックス・リバーブにつないでフル10でプレイしていた! ジェフ、ティム、カーマインの生演奏をコントロールルームに座って見たのを思い出す。エンジニアのアンディ・ジョンズ(Andy Johns)は音楽にあわせてスタジオ中を飛び跳ねて踊っていたね。私はレコーディング・セッションをジェフのマネージャー、アーネスト・チャップマン(Ernest Chapman)と座って見ていた。
翌日、私は草臥れたテレキャスターをつかんで、誰かの碌でもないフレット取付作業で傷んだ指板を除去する作業をスタートさせた。指板除去に必要なヒーターは手製でこしらえた。3/16インチのメイプル指板につけかえた後、フレット溝を手作業で刻み、そこに13インチ径のカーブでギブソン・レスポールの太めのフレットを取り付けた。18%ニッケル・シルバーのギブソン・レスポールのフレットだ。そして、主任修理工のサム・リー(Sam Lee)からもらったニトロ・セルロー ス・ラッカーをスプレーした。サムは修理の仕事の他に、イエスのスティーブ・ハウと共同でヴィンテージ・ギター・ショップも経営していた。そのネックには、私が長年欲しがっていた代替用のデカールはまだ貼られていなかった。
ジェフがCBSのスタジオにいるのはあと数日しかないということで、私はそのギターを早く仕上げようと奮闘した。
次のステップは、ピックガード用の材料を見つけることだった。マネージャーのノーマンが近くのプラスチック製品販売店で見つけて来てくれたので、それを手作業でテレキャスター用にカットし、ネック用PUを取り付けられるよう準備しておいた。
カバーを外す際に断線した、ギブソンの59年製P.A.Fハムバッカーのペアのコイル巻き直しをしなければならない。これらは黒くリフィニッシュされた、かつてロニー・マックが所有していた古い59年製フライングVから取り外したものだ。ロニーはインディアナ州に住んでいて、オハイオ州シンシナチでもしばしば演奏を行っていた。コイル用のワイアを見つけるのは難しかった。ようやく車関係のショップで2種類のワイアの束を入手することができたが、量があまりなかったこともあり太いゲージのワイアをネックPUに、ブリッジPUはサスティン、ハーモニクスと出力を伸ばすために巻き数を稼ぎたかったので、細いゲージを使用した。
ボディはブロンドのニトロセルロース・ラッカー仕上げの軽量アッシュ材で、6.5ポンド(2.95kg)ぐらいだったと記憶している。ビックガードにはネックPU用の穴を準備し、そこにオリジナルのクリーム色のギブソンの59年製ネックPU用エスカッションを載せた。
オリジナルのクリーム色のギブソンの59年製ブリッジ用エスカッションはそのままとっておきたかった(注;ギブソンギターのハムバッカーPU用エスカッションは、ネックの仕込み角度に合わせて傾斜がついており、フェンダーギターに適用するには、その傾斜を削って平らにする必要がある。ブリッジPU用にはついてはそういうことをしたくない、と解釈される。)ので、別のパーツを探した。そのエスカッションは削らず、1976年頃に組み上げた私用の「テレ・ギブ」に使った。JM(後のジャズ・モデルPU)ネック用PUとブリッジ用JB(Jベック)プロトタイプPUは現在も所有しており、私のレコーディング作「キング・トーン・ブルース」「男が女を愛する時」でその音を聴くことができる。
次にやらねばならないのは、廃物の古いテレキャスタープリッジ・プレートを、ブリッジ用ハムバッカーを装着できるようカットすることだ。フェンダー・ロゴのすぐ前の部分で真っ直ぐに切り取った。プレートの最前部は少し丸く仕上げてある。3個の50年代初期の真鍮製ブリッジ駒は、ロイ・ブキャナンが誰かからもらった古いギターについていたのを、60年代半頃に私にくれたものだった。
ブリッジPUは、私が大雑把に仕上げたピックガードの空白部にぴったり嵌った。それは0.093インチの濃いチョコレート色のプラスチック板から切り出されていた。伝統的なテレキャスターのピックガード同様5つのネジ穴を持ち、そこにネックPU用エスカッションをギブソン製の4つのネジで固定した。
ネックPUは、ブリッジ側が固定ポールピースを持つクリーム色のボビン、ネック側が調節可能なネジ式ポールピースを持つ黒いボビン、というゼブラ柄である。ブリッジPUはダブル・クリームのオリジナル59年製P.A.Fハムバッカー。
6本の5/40インチ丸平ネジはボビン表面と面一になるよう調整されている。
レバースイッチ・ノブは60年代中期あたりの古い電話交換機から豊富に得られた。同じノブをロイ・ブキャナンにも贈った…それは「ローディング・ゾーン」のカバー写真で見ることができる。1966年、彼がニュージャージー州ワイルドウッドのクラプで演奏していた頃だ。ボリュームとトーンのコントロール・ノブ、コントロールバネルは50年代のテレキャスターから取ってきた。
ジェフは「テレ・ギブ」を、「ブロー・バイ・ブロー」と以降のアルバムで使用した。「哀しみの恋人達」と「フリーウェイ・ジャム」のような曲のレコーディングで。その姿は「シークレット・ポリスマン・コンサート」のビデオで見ることができる。
ジェフはジャンルを超越して私が一番好きなギタリストであり、長年にわたる彼の援助と友情に対して感謝は尽きない。彼は毎回たくさん華々しいトリックを披露してくれるので、何をやってるのかじっくり腰を据えて聴き入るだけだ! 彼は最高だよ!
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数年後、私はジェフの「テレ・ギブ」に使ったのと同じ巻き方をしたピックアップを作ろうと思った。ネックPUは、映画「アメリカン・グラフィティ」に出てくるジェフのお気に入りのキャラクター、ジョン・ミルナー(John Milner)の頭文字をとってJMネックと呼んでいたが、後年、プレイヤーがそのクリーンでスムーズなトーンを認識できるよう「ジャズ・モデル」と改名した。ブリッジPUは同様に、ジャズ&ブルーズ用にということで「JB」となった。
2011年NAMMショーでのインタビュー。1976年に作った自身用のテレ・ギブを手に本稿と同じ話が語られています。下はそれを基につくられた「Seymour Duncan 35」。6250ドル! ヘッドはLSLの流用か?