1999年10月22日午後5時ごろ、北海道根室支庁中標津町標茶町の高校2年生・木村悟さん(当時16歳)が、友人宅から「(別の)友人の家に行く」と出発し、その後行方不明になった。

警察と学校関係者、家族らが捜索したところ、3日後の10月25日午後2時ごろ、路外に転落して死亡している悟さんが発見された。悟さんの遺体のそばにはオートバイがあり、警察は、無免許でオートバイを運転していた悟さんがカーブを曲がりきれず、路外に転落したと発表した。このオートバイは同月19日午後に中標津町内で盗難されたものだった。悟さんの死因は頚椎骨折によるものとされた。

その後警察は、悟さんの単独事故死であると判断、解剖されることなく処理された。しかし遺族は事故直後から現場での調査や関係者への聞き取りを続行。事故現場は悟さんがオートバイの運転を誤り路外に転落して死亡したとするには、あまりにも不自然な点が多いことが分かった。

発見時の状況は、身体が仰向けで、足がまっすぐそろっていて、脱げるはずのない靴や軍手が散乱、目が開いて口から血が流れていた。フルフェイスのヘルメットは顔の右横にきちんと脱いだような状態で、バイクは身体より5メートルくらい先で路外の斜面に立てかけた状態で発見された。悟さんが使用していた眼鏡は遺体発見時には見つからなかったが、遺族が11月6日に現場に行ったとき、悟さんの足の先30cmくらいのところに折りたたんだ状態で置いてあったという。もし悟さんがヘルメットをかぶっていなければ眼鏡は壊れる可能性が高いが、きれいな状態だったという。

また、バイクは立木にぶつかっているが、悟さんの衣服や体には全く傷がなかった。このことから、悟さんがどこか他の場所で殺害され、何者かが現場に遺棄した可能性もある。頸椎骨折とされた死因も、死後3日経過しているのに死斑が少なく、体内での出血の可能性があったのではないかとされた。

2003年11月26日、遺族は被疑者不詳の「傷害致死事件」として北海道警察本部に告訴したが、2005年12月28日に検察は「バイクによる単独死亡事故」と認定し、不起訴とした。翌年3月22日に再度審査申立を行ったが、10月17日、「単独の交通死亡事故であることに疑いの余地はない」などとして、改めて不起訴処分とした。刑事事件(傷害致死事件)としては2006年10月22日に公訴時効が成立。遺族の無念を晴らせないまま、捜査は打ち切りとなってしまった。








木村さんはトラブルに巻き込まれていた。


軽い気持ちでお酒やドラッグに手を出したことがあり、その関係で反社的な世界と繋がりを持ってしまっていた。


金銭を要求されるも、16歳の木村さんにそんな大金があるわけがない。


それならば裏社会の仕事を手伝うしかない。その組織はそうして、若者を取り込んでいた。


木村さんも断れるはずもなく、犯罪行為に加担させられることになった。


しかし、直前になり怖くなって逃げ出してしまう。


組織はそれを許さず、木村さんの後を追いかけた。


追い詰められた木村さんは、バイクの操作を誤り事故を起こしてしまう。


組織の者は遺留品に手を加え、不自然な状況をあえて作り出した。


木村さんの死を見せしめだと分からせるためだった。


そのため、事情を知っている人も口を閉ざした。次は自分の番かもしれないと思ったからだ。


木村さんは元来、お母さん想いの優しい少年だった。


犯罪に巻き込まれたときも、お母さんに知られたくない、悲しませたくない気持ちが強かった。


今回のことがなければ、しっかりと自立した親孝行な青年になっていた。