小林聖美さんとは知り合ってもう1年近くになる。
会社の取引先の女性で、私の担当となってくれていた。
彼女は聡明な顔立ちで、その容姿は魅力的で生き生きとして素敵な女性に見えていた。
彼女の会社では営業部の「姫」と呼ばれていたようで、周りからの評判も良く、もちろん男性たちから注目されていた。
そんな彼女と仕事でやりとりを重ねるうち、お互いを知る機会が多くなっていた。
会議や仕事終わりに食事を一緒に取ることが増え、自然と酒も飲むようになっていた。
彼女は陽気な性格で、酔うと笑顔が増えていた。
愉快に笑う顔は健康的で、見ていてこちらが気持ちよくなってくる。
やがて二人きりで会うことが増え、いつしか男女の仲になっていた。
彼女は私を受け入れ、私が望むものを与えてくれていた。
しかしまだ若かった私は彼女とのことをただ漠然としか考えていなかった。
そして1年が経とうという先日、彼女から思いがけない言葉を聞かされていた。
「私と結婚していただけませんか?」
容姿端麗な女性としての魅力を湛え、性格は誰からも好かれていた職場の華、小林聖美さんからの突然の申し出だった。
すれ違う人が振り返るほど美しい彼女が、私に向かって結婚していただけませんかという言葉を言った時、私はちょっと驚きながらもその言葉に初めて触れた彼女に少し違和感を感じていた。
もう十分お互いの事は解っていたはずだったし、彼女もやがて20代を終えようとしていた頃だった。
以前より両親から見合いの話をせかされ、上手く断る返事が出来ていなかったらしい。
付き合っている男からはまだ結婚の気配もなく、つい待ちきれずに自分から答えを求めてしまったのだ。
いや、彼女ならなんとかできると思っていたに違いない。
彼女は自分が人にはないものを持っていると分かっていたし、相手を見る目にも自信があった。
そしてその相手は真面目に付き合ってくれていたし、将来も間違いないだろうと感じていた。
あとは相手がうんと言ってくれればそれで人生は約束されただろうと思っていた。
私を見る目が時折切なそうに見えていたのはそういうことだったからなのかもしれない。
私はそんな事情も知らず、いきなり結婚の話を聞かされて戸惑っていた。
私は彼女を気に入っていたし、このまま付き合っていけばそうなってもおかしくはなかっただろうが、私の中で問題があった。
彼女から「結婚」という言葉を聞いた時、とっさに頭の中に相手の顔が浮かんでいた。
その場所はすでに「あの人」で埋まっていたのだ。
それは彼女ではなく、以前知り合った女性だった。
自然にその昔の知り合いの女性が浮かんできて、自分でも驚いていた。
私の中で、結婚相手はあの女性だと思っていたらしい。
小林さんには結婚はまだ考えていなかったことを伝え、返事を保留した。
誠に申し訳なかったが、僭越ながら彼女からのプロポーズを事実上辞退したのだ。
彼女は驚いた顔になって急に無口になり、真剣な表情で私をじっと見つめていた。
断られることなど、彼女は想像していなかっただろう。
これまで彼女はあちこちで男たちに誘われ、何度か真剣に口説かれたようだったが、今は目の前の男に袖にされそうになっていた。
彼女はこんなことになるなんて、夢にも思っていなかっただろう。
小林聖美は初めて、男にフラれてしまった女性の気持ちを理解していた。
それは約束を反故にされ、行き場のないやるせない気持ちを自分だけで抱えてしまったようだった。
私は彼女に変に誤解されないよう、時間をかけて彼女に説明し、決して遊びで付き合ってきたわけではないことをわかってもらおうとしていた。
彼女は気落ちしたようで、元気なく肩を落としていた。
そんな彼女を励ましながら彼女を車で部屋まで送った。
部屋には入らず、マンションのエントランスで後ろ姿を見送った。
彼女は見たことがないように寂しげで、茫然と歩いていた。
申し訳ない気持ちで車を出した。
彼女ならその気になればすぐに結婚相手は見つけられるだろう。
後ろ髪を引かれる想いでドライブを続けた。
あの小林さんを振るなんて、思ってもいなかった。
彼女が今まで知り合った女性の中で飛び切りの素敵な女性であることは充分わかっていたはずだった。
だからこそ、今まで付き合ってきた。
しかし結婚という言葉は、これまで意識していなかった。
私にはまだ時間があると思っていたからだ。
その時、頭の中にある結婚という丸い輪の中に浮かんだのは昔知り合ったあの女性だった。
まだ忘れられていなかったんだと思い知らされた。
それは学生時代、アルバイト先で一緒に働いた年下の女子大生だった。
彼女とは1年近く一緒に働いて仲も良かった。
人気のコンサートに誘い、誕生日にはプレゼントもあげていた。
しかしまだ恋人ではなく、はっきり意思表示できていなかった。
私が勝手に好きになった女の子だった。
「あなたみたいなお兄さんが欲しいな。」
そんな彼女の呟いた言葉を覚えていた。
しかし今どこでどうしているのかわからなかった。
それでも、小林さんの申し出を辞退してから、あの彼女を探そうという気になっていた。
そうしなければ、これから先へ人生を進めることが出来ないと思ったからだ。
あれからもうずいぶん時間が経っていた。
あの彼女は今どこで何をしているのか、ひょっとしたらもう結婚しているのではないかと不安になった。
探す手段を考えながら、自分の立場を振り返っていた。
就職して何年か経ち、仕事にも慣れてきて素敵な女性と知り合うことが出来た。
そんな彼女から結婚を求められ、辞退してしまった。
自分の中の忘れられない女性を想い、目の前の素敵な女性を自ら失ったのだ。
あの彼女と再び会うことが出来るのか、付き合うことが出来るのか、まったく自信はないが、彼女に話を聞いてもらうことが出来ればそれでひとまず自分は納得できるだろうと思う。
伝えられなかった言葉を、今一度彼女に伝えたい。
それがどんな結果になろうとも、仕方ないじゃないかと思う。
車を走らせながら、そんなことを考えていた。
彼女の名は高来未那(たかくみな)という。
たしか中野か杉並辺りに住んでいた気がした。
それだけでは探しようがなかったので彼女の学生時代の知り合いを捕まえてみることにした。
有名なお嬢様大学のOGが社内にいたはずだった。
人事部の付き合いのあった女を捕まえ、同窓生を探してもらった。
もちろん、それに見合うだけの対価を支払うことになった。
某グループのライブ、プラチナチケット2枚で話がついた。
1か月は小遣いなしを耐えなければならなくなった。
翌週、それでも彼女は期待通りに人事のデータベースから同窓生を探し出し、卒業年度を確認して一冊の名簿を手にしていた。
「ね、誰を探してるの?」
以前に少し付き合った人事部の彼女は焦らすように私を問い詰める。
「今さら昔の女をさがしてどうするわけ?もうとっくに嫁いでるんじゃないの。」
煙草の煙を吐きながら彼女は私を値踏みするように上目遣いで眺めている。
返事をする代わりにチケットを彼女の胸もとに差し入れ、服の上から片手で揉む。
「これはサービス。」
キャッと叫んで彼女が飛び上がる。
振り返りもしないでその場を後にした。
彼女が何か叫んでいたが、聞こえないふりをした。
その夜、名簿からあの彼女の住所を見つけた。
中野だった。
まだそこに住んでいるだろうか。
地図を眺め、最寄り駅を確かめた。
一週間経って、やっと彼女を見つけた。
その日は終電近くの深夜、諦めて帰ろうかという頃だった。
ラフな格好でバッグを肩にかけ、長い髪をなびかせていた。
車のライトが照らすたび、あの彼女がそこにいた。
車の中でじっと彼女を見つめ、久しぶりに全身を見た。
そして彼女が自宅へ入るのを確認し、部屋へ帰った。
しばらくしてからも、妙に興奮が収まらなかった。
あの彼女を見つけた。
何年ぶりだろうか。
今しがた見た姿を思い出し、何度も繰り返しその姿を想った。
少しやせたのか、雰囲気が大人になった気がした。
これからどうしようか、悩んでいた。
声をかけるか、連絡するか、まさか手紙はないだろう。
悩みながら夜が更けていた。
彼女には電話することにした。
下手な小細工は良くないと思ったからだ。
名簿にあった電話番号にかけてみた。
平日の夕方、19時を過ぎたあたりに思い切って電話した。
電話には母親らしい女性が出た。
名前を名乗り、未那さんはご在宅でしょうかと尋ねると、まだ帰っていないという返事だった。
至急連絡を取りたいと伝え、私の携帯番号を教えた。
彼女のことをもっと知りたかったが、母親らしき人に聞くのはまずいと思って聞かなかった。
それから2日たった昼過ぎに電話があった。
「高来未那です。」
彼女の声だった。
何年ぶりかで聞く声は、かつてを思い出させるほど懐かしく、嬉しさが込み上げてきた。
「おう、元気だったか?」
なんと声をかければいいか考えていたが、つい、昔の口調で声が出た。
「中林さん、お久しぶりです。どうしたんですか、急に。」
彼女の声ははにかんで甘く囁くように聞こえた。
話をしたい事があって、会って食事でもどうかと誘った。
いいですよと明るく返事があった。
今日の19時に待ち合わせることにした。場所は仕事で使ったことのあるレストランに予約した。
街中のビルにあるちょっと高級感のある有名店だ。
時間前にビルの前で待っていた。
信号が変わり、人混みの中から彼女が現れた。
遠目からでも彼女は見分けがついた。
長い髪をなびかせ、バックを肩にかけ、チノパンにカーディガンを羽織っていた。
何より彼女は美しく優しい表情をしている。
私が人生で出会った、一番の綺麗な女性だと思う。
歩く姿を見つめ、やはり彼女は記憶のままの人だと感じた。
レストランで差し向かいで座り、メニューを選んでオーダーした。
静かな店内のなか、二人で向かい合うのはやはり緊張していた。
「久しぶりですね。どうしてましたか?」
彼女は何年振りかで会った人とは思えないほど、気楽に声をかけてくる。
「高来はどうしてた?あれからさっぱり会えなかったけど。」
彼女は大学を卒業して知人の事務所で働いていたらしい。
彼女の近況を聴きながら食事が進む。
彼女の友人の話も聞くことができた。
「あら、彼女のこと、知りたかったんじゃないの?」
少し付き合ったことのある彼女の友人のことは今は耳に入らなかった。
「それで?」
彼女がわたしに今日のことを聞いてきた。
「話って、何ですか?」
彼女は何の疑念もなく、普段の表情で聞いてきた。
「いや、じつは、・・・」
どう話せばうまく伝わるのか、何度も考えていたが、いざ本人を目の前にして全てが飛んでいってしまった。
仕方なく、自分なりに話を始めた。
「こんな話、信じてもらえるかわからないけど。」
息をついて、話し始めた。
「先週、知り合いの女性から結婚していただけませんかと話があった。」
突然の結婚話に、彼女は目を見開いて驚いたようだった。
「会社の取引先の人で、仕事でここ一年くらい食事したり飲んだりして会ってたんだ。まあ、真面目でいい人なんだけど。その人から先週、結婚していただけませんかって言われたんだ。」
彼女は興味を持ったようで、黙って私を見つめてくる。
「だけどその時、結婚と言われて、俺の頭の中に結婚のイメージの丸い輪があって、その場所にもう他の人が入ってたんだ。」
彼女はじっと私を見つめ、眉を少し上げていた。
「で、彼女には申し訳ないがまだ私は結婚を考えてないって伝えて丁重にご辞退させていただいたんだ。」
ふうと息をつき、目の前の彼女をみた。
彼女の目は真剣な眼差しで、じっとして動かなかった。
店内は人が増えていて、賑やかに食事が進んでいた。
窓際の夜景が見える席で、私と彼女は向かい合ってお互いを見つめ合っていた。
「それで、結婚の輪の中にいたのが」
口をつぐみ、彼女を見つめた。
「高来未那、お前だ。」
彼女は驚いたように顔をあげ、口を開いて私を凝視していた。
しばらく、彼女は動かなかった。
私はこのために、金澤さんのプロポーズを辞退して、彼女と別れたのだ。
高来未那は目を見開いたまま、唇を動かして何か言おうとしていた。
「彼女から結婚していただけませんかといわれるまで、頭の中の輪の中にお前が入っているのに気がつかなかったんだ。」
彼女はやっと口を閉じて、話し出した。
「ど、どうして今ごろ、そんな!」
彼女は怒ったように、口調がいつもとは違っていた。
「彼女に言われて気が付いたんだ。輪の中に高来がいたことに。ずっと前から、そこにいたんだ。」
彼女を見つめると、彼女はいつのまにか涙が溢れていた。
口を押さえ、声は出さずに、彼女は泣いていた。
しずかに時間だけが過ぎていった。
しばらくしてやっと彼女が涙を拭いて落ち着いたようだった。
何を話すでもなく、あたりを眺め、涼しそうな表情に変わっていった。
「俺の話はそういうことだ。」
彼女はあらためて私を見、優しげな表情で微笑んだ。
「その人を振って、いいんですか?もったいないくらい、いい人なんでしょ?」
彼女が私を見てつぶやく。
「取引先では”姫”って呼ばれてるらしい。」
彼女がちょっと笑顔になって顔を上げた。
「今からでもやり直したら?まだ間に合うでしょ?」
「だから、もう先に入ってたんだって。」
二人で向かい合い、真顔で見つめ合う。
緊張感が押し寄せてきた。
「何年かぶりで、いきなりこんな話で申し訳なかったけど、このことを伝えないと一生の後悔になるから。高来の今の状況はわからないけど、俺にとっては一番大事な話なんだ。」
自分が思っていた話をどうにか彼女に伝えて、どこかしら満足したような充実感があった。
店の外へ出て、彼女を家まで送ろうと車を出した。
首都高をドライブしながら、昔聴いていた音楽を流していた。
彼女とは趣味が似ていたから、違和感がなかった。
「この曲、なつかしい。」
「俺は今でも聴くけど。」
首都高は混んでいたが渋滞にはならず、時折車が消えて目の前が開けてビルの明かりが綺麗に見えていた。
「海でもいきたいなあ。」
彼女は呑気につぶやく。
「え、今から?」
彼女はふっと笑って笑顔を見せた。
「なんてね。」
今夜のドライブはすがすがしく、音楽もまたいい味を出していた。
彼女のマンションにつき、お別れした。
「いま忙しいからあまり時間ないけど、また今度ね。」
笑顔で手を振って、チノパン姿の彼女は建物の前で私の車を見送っていた。
顔だけで彼女に合図して、その場所を後にした。
背中に彼女の視線を感じていた。
果たして、彼女はどう思ったんだろう。
しかしその後、何日経っても彼女からの連絡はなかった。
何度かこちらから彼女に電話を掛けようとしたが、何とか思いとどまっていた。
やがて季節が流れ、もうすっかり落ち込んで打ちのめされた私は元気なく日々を過ごしていた。
小林さんは会社を辞め、どこかへ消えてしまっていた。
唯一の救いは、ほっておいた株式投資が大当たりして臨時収入が入ってきたことだった。
夜の巷で憂さを晴らしながら、やるせない気持ちを忘れようとしていた。
そんな時、携帯にメールが届いた。
高来未那からだった。
”今、パリに居ます。仕事が片付いたら年末には帰ります”
とあった。
「フランス?」
一瞬、眩暈がした。
便りがないのはいい知らせだと言うが、何か月も連絡がないのはどうなんだろう。
彼女が何をしているのかわからなかったが、いずれ日本に帰ってくることだけは解った。
添付された写真は仲間らしき男女と一緒に笑顔で映っていた。
そしてその日から、私はまた長い日々を一人寂しく過ごすことになった。